太史慈 劉備に救援を求め、孫策に仕えて活躍した武人の生涯

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孔融の救援に向かう

孔融こうゆうは儒教の創始者・孔子の子孫として知られる名士で、当時は北海国のしょうの地位にありました。

(相は、封建された貴族の領地を統治する役職です)

孔融は太史慈の評判を聞いて興味を抱き、太史慈が不在の間、彼の母のもとに人を送り、贈り物をするなどしてつながりを作りました。

そうした中、やがて黄巾賊の乱が発生します。

すると孔融は軍勢を率いて都昌としょうに駐屯しますが、そこで黄巾賊の将・管亥かんがいに包囲されてしまいました。

ちょうどそのころに、ほとぼりを冷ました太史慈が、遼東から青州にもどってきます。

そして実家に顔を出すと、母親から「おまえはまだ孔融どのと面識がないのに、おまえがいない間、孔融どのからいろいろと生活の支援をしていただきました。それは昔からの知り合いであるかのように、とても心のこもったものでした」と告げられます。

そして母親が「孔融どのはいま、賊の包囲を受けておられます。あの方の元に駆けつけ、助けてさしあげなさい」と言うと、太史慈はうなずき、母親の元に3日だけとどまってから、孔融が籠城する都昌へとおもむきました。

この時はまだ包囲が厳重ではなかったので、太史慈は夜陰にまぎれて城内に入りこむことができ、孔融と面会します。

太史慈は孔融に会うと、「兵を自分に預け、賊を討たせてください」と願い出ました。

しかし孔融はそれを許可せず、外部からの救援を待つことにします。

太史慈はこの時、兵を率いて戦った実績がありませんでしたので、孔融はそれを危ぶんだのかもしれません。

救援要請のために城を脱出する

何日かが過ぎても救援はやってこず、むしろ賊の包囲が強まり、孔融は危機に陥ります。

孔融は平原国の相・劉備に救援を要請しようと考えましたが、彼の部下の中には、包囲を突破できそうな強者がいませんでした。

このため、太史慈は自ら使者になることを孔融に申し出ます。

孔融は「賊の包囲が厳重になっており、みなが脱出は不可能だと言っている。あなたの意気は盛んなようだが、実際には困難なのではないか?」と太史慈に問いました。

すると太史慈は、「かつてあなたさまには老母のために周到な心づかいをしていただきました。老母はその処遇に感謝し、私をこちらに来させたのです。私もまた、こちらに着いたらお役に立てるだろうと考えていました。みなが『脱出は不可能だ』と言いますが、私がそれに同調して萎縮してしまったら、あなたさまから受けた恩義と、老母の意向に背くことになります。事態は切迫しております。迷われませぬように」と筋の通った返答をして、自らの堅い意志を示しました。

すると孔融は太史慈の覚悟を知ってようやく決断し、出発を許可します。

太史慈はすぐに旅装を整えると、夜明けを待って馬に乗り、弓を手にして城門から飛び出しました。

計略を用いて脱出を成功させる

太史慈が二人の騎兵を連れて外に出ると、城門の外にいた黄巾賊たちは驚きましたが、やがて太史慈たちに向かって押しよせてきます。

太史慈はそれを避け、城壁の下の堀の中に馬を乗り入れると、騎兵たちに持たせていた的を、離れたところに立たせました。

そして弓矢で的を射ぬいて自分の腕を見せつけると、城内に駆けこんで賊の攻撃から逃れます。

翌朝も同様に、的を立てて矢を射ましたが、包囲している賊たちは、今度は半分ほどしか反応しませんでした。

残りの者たちは早朝だったので、対応が面倒になって寝たままだったのです。

前日に、太史慈が的に射撃をしただけで、賊たちには攻撃をしなかったので、油断したのでした。

太史慈はその様子を観察してから、城内に引き返します。

そしてまた翌朝にも、再び太史慈は城門から外に出ましたが、今度はもう誰ひとり、立ちあがる者さえいませんでした。

賊たちは、あいつはまた的を射て城に戻るだけなのだろう、とたかをくくっていたのです。

太史慈はそれを見てとると、馬に鞭をあてて疾走させ、一気に囲みを突破しました。

賊たちが気づいた時には、太史慈はすでに囲みを抜け出しており、そのうえ数人の賊を射殺して威嚇したため、誰もあとを追おうとする者はいませんでした。

こうして二日をかけて賊たちを油断させきった太史慈は、不可能と思われた包囲の突破を成功させたのです。

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