太史慈 劉備に救援を求め、孫策に仕えて活躍した武人の生涯

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豫章の兵や民を迎えに行く

太史慈が仕えていた劉繇は、孫策に敗れて豫章に逃れていましたが、やがてその地で死去します。

すると、彼に従っていた一万の兵や民衆が、身の寄せどころを失ってしまいました。

孫策はその話を聞くと、太史慈を豫章に派遣して彼らを慰撫し、自分の勢力に取りこむことにします。

この時に孫策の側近たちは、太史慈がそのまま豫章にとどまって独立するか、兵を引き連れて北方に帰ってしまうのではないかと危惧し、反対しました。

しかし孫策は、「太史慈は勇気と大胆さを兼ね備えているが、権謀術数を好む人柄ではない。行おうとすることは道義にはずれず、人と交わした約束は尊重する。ひとたび心を許した相手には、死をかけても節義を守り通す。諸君らの心配は無用なことだ」と言って太史慈への信頼を示しました。

太史慈は出発にあたり、どのくらいの期間が必要かを孫策に問われましたが、「六十日はかからないでしょう」と答えると、果たしてその期日のうちに帰還しています。

孫策には人を見る目があり、太史慈は孫策からの期待にこたえたのでした。

二人は、理想的な主従関係を築いていたのだと言えるでしょう。

豫章奪取の勧め

太史慈は単に兵や民を連れ帰っただけでなく、豫章の情勢も偵察してきていました。

この時の豫章は華歆かきんが統治していましたが、それは十分なものではなく、民衆たちは華歆を頼らず、結束して自治を行うことで、かろうじて自分たちの身を守っているありさまでした。

なので太史慈は「華歆どのには特別の才能も、将来への見通しもなく、ひたすら現状を守っているだけで、豫章を満足に統治することができていません」と報告し、豫章を奪うのは難しくないことを孫策に教えました。

すると孫策は手をうっておおいに喜び、豫章を併呑することを決意します。

それから間もなく孫策は豫章に攻め込んで占拠し、ますます勢力を強めたのでした。

この挿話から、太史慈には情勢を的確に見定める、観察眼も備わっていたことがわかります。

劉磐を抑えるため、六県の統治にあたる

けい州を支配する劉表りゅうひょうは、孫策と勢力圏を接していましたが、その甥の劉磐りゅうはんは勇猛な武将で、しばしば孫策の領地にも侵入していました。

孫策は劉磐を抑えるため、太史慈を建昌など六県の統治者とし、都尉といに任命します。

太史慈はそれらの県をぬかりなく統治し、武将たちを指揮して、劉磐の侵攻を食い止めることに成功しました。

太史慈の指揮にはつけいる隙がなく、以後は劉磐もおとなしくなり、国境の安全が確保されています。

こうして太史慈は指揮官として、また統治者としても役目を果たせることを証明しました。

賊の手を射抜く

太史慈は弓の名手として知られていましたが、ある時、孫策に従って賊を討伐した際に、その妙技を見せています。

孫策軍が賊がこもる砦への攻撃を開始すると、賊のひとりが楼(高く作られた建物)に登り、そこから悪口を浴びせかけてきました。

その賊は手で楼のはりをつかんでいたのですが、太史慈はそれを見るや、弓を引いて狙撃します。

すると矢が狙いどおりに賊の手を貫き、棟にぬいつけてしまいました。

砦を包囲していた一万もの兵たちは、そのみごとな技をほめそやし、太史慈の武名はさらに高まります。

太史慈は百発百中の弓矢の腕を持っていた、と言われています。

曹操に誘われる

こうして太史慈は次々と手柄を立て、その名声が高まっていきましたが、やがてそれが曹操の耳にも達します。

人材好きの曹操は、太史慈を配下に迎えたくなり、手紙を送りました。

しかし、太史慈が封を開けてみても、なにも書いておらず、ただ『当帰とうき』という薬草が入っているだけでした。

これは『(故郷の北方に)帰るし』という意味がこめられた謎かけだったのですが、太史慈は曹操の誘いをはっきりと断り、孫策を裏切ることはありませんでした。

孫権にも仕えるが、やがて死去する

やがて孫策が仇討ちにあって死去すると、弟の孫権が呉国を支配するようになります。

孫権もまた太史慈の統治力と、劉表軍の侵入を抑えていることを評価し、南方地域の統治を任せました。

しかし太史慈は206年に、41歳で死去してしまいます。

死因は記されていませんが、年齢からして病死だったのだと思われます。

太史慈は臨終の際に、「大丈夫だいじょうふたるもの、世に生きては七尺の剣を帯び、天子てんし(皇帝)のきざはしを登るべきなのに、まだその志を遂げぬうちに死ぬことになるとは、残念だ」と言い残しています。

年齢からして、まだやり残したことがある、という無念の気持ちが強かったのでしょう。

孫権は太史慈の死を聞いてひどく悼み、悲しんだということです。

太史慈評

三国志の著者・陳寿は「太史慈は信義を守ることに一身をかけ、古の人に変わらぬ操業を持した」と短く評しています。

劉備への救援要請や、孫策との一騎打ちなど、個人的な武勇が目立つ太史慈でしたが、孫策に仕えて以降は、武将としての力量を発揮しました。

そして信義に厚い人柄によって信頼を受け、一方面を任される地位にもついています。

孫策の陣営では新参者だったことを考えると、急速に出世をしたのだと言えます。

太史慈の半生は、いかに能力があっても、それをいかせる主君に出会わなければ、なかなかそれを発揮できない、という事象を表しているかのようでした。

最終的には、太史慈は力量にふさわしい地位を得ましたが、間もなく死去してしまったため、曹操・孫権・劉備が争う三国時代には登場しないで終わっています。

そのあたりを残念に思われたのか、『三国志演義』では、赤壁の戦いで活躍したり、張遼とも激しく戦うなど、派手な出番が追加されています。

なお、子の太史享たいしきょうもまた呉に仕えており、後に呉郡太守にまで立身しました。