劉備に援助を受け、孔融を救出する
太史慈は平原国に到着すると、劉備に面会を申し込み、孔融が危機的な状況にあることを伝えます。
そして「仁義を行い、他人の危急を救うことで知られるあなたさまに、孔融どのが助けを求めておられます」と告げました。
すると劉備は「孔融どのは、この広い世界のうちに、私がいることを知っていてくださったのか」と感激した様子を見せます。
孔融は名士でしたので、その彼に存在を知られていること自体が、名誉なことだったのでした。
このように、太史慈は劉備のよい評判をあげた上で、孔融の名前を出して要請し、劉備が早急に動いてくれるよう、配慮した申し入れをしたのです。
劉備はすぐに精鋭の兵士三千を太史慈に同行させ、都昌に派遣しました。
賊たちは救援が大勢でやってきたと聞くと、包囲をといてばらばらに逃げ散っていきます。
こうして孔融は太史慈に救出されましたが、以前にも増して太史慈を尊重するようになり、「あなたは私の若き友人だ」と言って友誼を結びました。
ちなみに孔融は153年の生まれで、太史慈よりも13歳年上でした。
こうして事態がおさまると、太史慈は母親の元に戻り、あらましを話します。
すると母親は、「おまえが孔融どのに恩返しできたことを、うれしく思います」と太史慈に言いました。
この行動から、太史慈は親孝行で、信義に厚い人物だ、という評判を得るようになります。

劉繇の元を訪れる
その後、董卓が朝廷を支配するようになると、天下はおおいに混乱し、各地に群雄が独立割拠する情勢になります。
そんな中で太史慈は、揚州刺史で、数万の兵力を蓄えるほどの勢力を持っていた、劉繇の元を訪れました。
それまでに両者に面識はありませんでしたが、同郷の出身だという縁があったので、太史慈はそれを頼りに劉繇に仕官しようとしたようです。
太史慈は劉繇の拠点である曲阿で面会しましたが、時を同じくして、孫策の軍勢が押しよせてきました。
このころの孫策は、揚州の東部を統一しようとして、各地の支配者たちと争っている最中だったのです。
これを受けて劉繇に対し、「太史慈を大将軍に任命し、孫策を防がれてはいかがでしょう?」と勧める者がいました。
しかし劉繇は「子義(太史慈の字)どのを用いたりすると、許子将どのに笑われぬだろうか?」と言ってためらい、進言を受け入れませんでした。
許子将は人物鑑定家として知られる名士で、曹操を「治世の能臣、乱世の奸雄」と評したことで知られています。
この時期には中央の混乱を避けて曲阿に滞在し、劉繇の相談役にもなっていましたが、劉繇は太史慈を用いることで、彼から低く評価されるのではないかと恐れたのでした。
このあたりの話からすると、当時はまだ太史慈に対する世間の評価が、そこまで高くなかったのかもしれません。
いずれにせよ、劉繇は決断力に乏しい人物で、せっかく有能な人材がたずねてきたのに、重く用いることができなかったのでした。
このため、太史慈はひとまず偵察の任務を引き受け、騎兵ひとりのみを連れて城外に出ます。
孫策と一騎打ちをする
太史慈が孫策軍の様子を探ろうとしていると、偶然にも孫策その人に遭遇します。
孫策は韓当や黄蓋といった、勇猛な13人の武将たちを引き連れていましたが、太史慈はためらいもなく突撃し、孫策に戦いを挑みました。
孫策もまた、部下たちに手出しをしないようにと告げ、自ら正面から迎えうちます。
やがて孫策が太史慈の馬を突き刺し、太史慈が背につけていた手戟(投擲用の斧)を奪いとると、太史慈も負けじと孫策の兜を奪いとりました。
二人の力量は互角だったのだと言えます。
ちょうどその時、敵味方の歩兵や騎兵が集まってきたので、二人は左右に別れて引き下がり、一騎打ちは引き分けに終わりました。
こうして太史慈は、思わぬ形で孫策との縁ができたのでした。
孫策に捕らえられる
その後、劉繇は太史慈を使いこなせぬまま孫策に敗れ、豫章に逃亡します。
太史慈は途中までは同行していたのですが、劉繇には失望していましたので、やがて姿をくらませ、まだ孫策に支配されていない、涇県という地にたどり着きます。
そして丹陽太守を自称し、兵をつのったところ、山越族(南方の異民族)たちが多数参加してきました。
こうして太史慈は自らの勢力を築きますが、やがて孫策が討伐のために進軍してきます。
太史慈はこれを迎え討ったものの、敗れ去り、孫策に捕らえられてしまいました。
孫策の配下となる
孫策は捕虜になった太史慈と面会すると、ただちに縄をとかせ、その手をとってこう言いました。
「神亭のことを覚えておられるだろうか? もしあなたが私を捕らえていたら、あなたは私をどう処分しただろう?」
神亭は、ふたりが一騎打ちをした場所だと思われます。
太史慈が「とても、想像もつきません」と謙虚に答えると、孫策はおおいに笑います。
「では、あなたが私にしたであろう処遇をしよう」と言って、その場で太史慈に門下督(将軍の側近)という地位を与えました。
さらに呉郡に戻ると、折衝中郎将という、指揮官の地位に進め、一軍を担わせることにします。
こうして太史慈は、ようやく自分を高く評価してくれる主君にめぐりあったのでした。
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