三国志の時代、蜀には許慈と胡潜という学士たちがいたのですが、すこぶる仲が悪く、口論だけでなく、鞭を振りかざして争い、やがて劉備にも心配をかけるほどの事態を引き起こします。
このため、劉備はとある方法で二人の争いをやめさせることにしました。
この文章では、そんな挿話を紹介しています。
許慈について
許慈は字を仁篤といい、荊州の南陽郡の出身でした。
劉熙に師事し、鄭玄の学問を習い、『易』『尚書』『三礼』『毛詩』『論語』といった儒教の経典を学びます。
そして建安年間(210年頃か)に、許靖とともに交州から益州に入りました。
許靖は後漢で地位を得た高名な人物でしたが、戦乱が始まると、それを避けて辺境の交州に滞在していました。
そして同じく避難していた人たちの世話をしていましたので、許慈もその中に含まれていたのかもしれません。
胡潜について
一方で胡潜は字を公興といい、冀州の魏郡出身で、経緯は不明ですが、故郷からはるか遠い益州に住むようになっています。
胡潜には学問の幅広さはなかったものの、ずばぬけた記憶力を持っていました。
具体的には、祖先の祭祀で実施する儀式のしきたりや、葬儀の規則や、故人との親しさの差によって、五階級の喪服を使い分けるといった、細かな決まり事に通じていました。
それらを何も参照せずに、手のひらに指で書き示したり、地面に描いて見せられるほど熟知しており、手をあげて物を取り出すようにして、知識を用いることができたのです。
慣例制度の調査を行う
214年になると、劉備が益州を平定しますが、その頃には動乱の時代が十数年も続いており、学問が衰退していました。
なので劉備は書籍を収集させ、学問を選別し、許慈と胡潜を学士に任命します。
彼らは孟光や来敏といった他の学者とともに宮中の慣例制度を調査し、その制定に取り組みました。
許慈と胡潜が争う
蜀の草創期のことでしたので、何を決める際にも異論が噴出し、許慈と胡潜は互いに相手を抑え込もうとし、非難を浴びせあいます。
感情をむき出しにし、それは声や顔色にも現れるほどでした。
そして彼らは、互いに所有していない書物の貸し借りをすることもなく、時には鞭をふるって相手を脅しつけるようになります。
彼らがそれぞれに我を通し、嫉妬にかられて相手を攻撃する様は、非常に見苦しいものでした。
まさしく、犬猿の仲だったのだと言えます。
劉備が宴会でたしなめる
劉備はそのような二人の様子を懸念し、群臣を集めた宴会の席で、彼らをたしなめることにします。
宴席で、芸人に二人と同じかっこうをさせ、争いあう姿をまねさせる、というのが劉備の企画でした。
酒宴がたけなわとなり、音楽の演奏が始まるとこれを実行させ、酒の肴にします。
最初、芸人たちは言葉の応酬で争っていましたが、最後には刀や杖をふるって相手を屈服させる様子を演じました。
これによって劉備は、許慈と胡潜が自分たちの姿を客観的に見れるようにし、反省を促したのです。
胡潜は早くに亡くなるが、許慈は立身する
221年に劉備は蜀の皇帝となりましたが、その際に、許慈は帝位につくことを勧める文書に名を連ねています。
胡潜は先に死去しましたが、許慈は劉禅にも仕えて昇進し、やがて大長秋(皇后府の長官)になりました。
この頃には劉備にたしなめられ、ライバルが死去したことで、落ち着いてきていたのかもしれません。
やがて許慈も亡くなると、子の許勛が学業を受け継ぎ、博士となりました。
許慈・胡潜評
三国志の著者・陳寿は許慈と胡潜を「博学多識で、徳行の点では称賛を受けなかったが、一代の学者であった」と評しています。
この二人の伝については、孫盛という史家が「蜀は人材が乏しかったので、この程度の者たちも伝に加えたのだろう」といった、意地の悪い見方をしています。
この伝はおそらく、劉備が問題のある人物たちをどのように扱っていたかがわかり、なかなか興味深い挿話だったので、陳寿は収録することにしたのだろうと思われます。