来敏は蜀に仕えた学者です。
後漢の建国に貢献した家柄の生まれでしたが、戦乱を避けるために益州へと移住しました。
そして劉禅の側近となり、軍師や将軍に抜擢されるなどしましたが、人格に問題があったために免職となっています。
その後も起用と免職を繰り返しながらも、97才という、当時としては相当な長命を保った後、死去しました。
この文章では、そんな来敏について書いています。
新野に生まれる
来敏は字を敬達といい、荊州の義陽郡、新野県の出身でした。
後漢建国の功臣・来歙の子孫で、名門の出身だと言えます。
父・来豔は学問を好み、謙虚な態度で人々に接し、屋敷を開放して集まってくる者たちを養いました。
そして若い頃から高位を歴任し、やがて霊帝の時代に司空(土地と人民を司る大臣)の地位にまで昇っています。
しかし来敏の代になると、後漢末期の戦乱に遭遇することとなり、来敏は姉とともに荊州に逃れました。
蜀に入り、劉璋の賓客となる
来敏の姉の夫は黄琬といい、益州の長官である劉璋の血縁者でした。
このため、劉璋が来敏の姉を引き取ったので、来敏もともに益州に移住します。
そして劉璋の賓客となり、書物を広く読みあさる生活を送りました。
『左氏春秋』という史書を特に読み込み、『三倉』や『広雅』の訓詁学(古代語の研究)に最も詳しくなり、文字の校正に熱心でした。
このようにして、来敏は学者として知られる存在となっていきます。
劉禅の側近となる
やがて劉備が益州を平定すると、来敏は典学校尉(学問の責任者)に就任し、ついで太子となった劉禅の家令になりました。
来敏は、学士に任命された許慈や胡潜とともに、以前からの慣例制度を調査し、蜀の統治に役立てます。
そして劉禅が皇帝に即位すると虎賁中郎将(近衛兵の指揮官)に任じられました。
さらには諸葛亮は漢中に駐屯していた際に、来敏を軍祭酒(軍師)・輔軍将軍に抜擢し、北伐に用いようとします。
ここまでは、来敏は順調に出世を重ねていたのですが、やがて問題を起こし、諸葛亮から免職にされてしまいました。
諸葛亮の命令書
諸葛亮は来敏を免職にしたことについて、次のような命令書を残しています。
「将軍の来敏は上役に対し、あからさまに、このように述べた。
『新入りにいったいどのような手柄や徳行があって、私の栄誉ある地位を取り上げ、与えるのですか。
諸人はみなそろって私を憎んでいますが、どのような理由で、そんな態度を取るのでしょうか』
来敏は年老いて常軌を逸し、このような恨み言を言ったのである。
その昔、成都が平定されたばかりの時、人々は『来敏は全体の和を乱す人物だ』と主張した。
先帝(劉備)はまだ益州を平定したばかりの時期だったので、忍耐をしたものの、来敏を礼遇されることはなかった。
後に劉巴が来敏を選抜し、太子の家令としたところ、先帝は不機嫌な様子をしめされたものの、拒否するのは忍びないと考えられた。
主上(劉禅)が即位なされた後、私に人を見る目がなかったので、来敏を抜擢して軍祭酒・将軍に任じたが、これは人々の判断を無視し、先帝が排斥されたご趣旨にもとることになってしまった。
私としては、来敏が軽薄な風俗を純朴なものとし、道義によって指導してくれるだろうと期待してのことだった。
しかしいま、それがかなわないとわかった以上、上表をして退職させ、門を閉ざさせ、過ちを反省させるものである」
来敏の学識のゆえに、それにふさわしく人々の規範となることを諸葛亮は求めたのですが、来敏は嫉妬深く、恨みがましい性格だったので、期待にはこたえられなかったのでした。
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