榊原康政 徳川家康に仕えて文武に活躍し、四天王に数えられた名将

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榊原さかきばら康政は徳川家康に仕えて活躍した武将です。

元は低い身分の生まれだったのですが、子供のころに才能を見込まれ、家康に抜擢されました。

その後は戦場だけでなく、政務や行政の方面でも活躍しており、多才な人物でした。

それゆえに重用され、館林で10万石の大名にまで立身しています。

この文章では、そんな康政について書いています。

榊原康政

【榊原康政の肖像】

三河に生まれる

榊原康政は1548年に、三河の上野郷で誕生しました。

康政の父は、松平氏の家臣である酒井氏に仕えていました。

つまり松平氏から見ると陪臣であり、その身分は高いものではありませんでした。

ですが康政は幼少のころから勉学に励み、自らの才覚によって出世の糸口をつかんでいくことになります。

桶狭間の戦いの後で家康に仕える

1560年になると桶狭間の戦いが発生し、今川義元が織田信長に討たれて戦死しました。

すると、義元の支配下に置かれていた家康は三河に帰還し、独立を果たします。

康政はこの時期に初めて家康に面会し、その才能を認められ、小姓として用いられるようになりました。

康政が学問を学んでいたのは、松平氏の菩提寺である大樹寺でしたので、そこに優れた子供がいるという話は、自然と家康の耳にも入ったのでしょう。

小姓とは、主君の身の回りの雑務をこなす役割ですが、主君と日々直に接しながら、教えを受けることができる立場にありました。

つまり康政は、幹部候補生として家康に起用されたのだということになります。

三河一向一揆で初陣する

やがて1563年になると、三河で一向一揆が発生します。

これは一向宗の門徒たちが徒党を組み、家康に対して反乱を起こしたものでした。

この時には、榊原氏の主君であった酒井忠尚ただなおを含む、三河の有力武士たちも一揆に加わるなどして反乱を起こしたので、大規模な騒動となります。

康政はこの時、家康の側に残って初陣を果たしました。

そして武功を立てて家康から称賛され、名前に「康」の字を用いることを許されます。

こうして康政は、家康からの評価をさらに高めたのでした。

元服して抜擢される

1566年になると、康政は旗本先手役に任じられ、50騎を率いるようになります。

旗本先手役は家康直属の部隊で、戦時には家康の側で戦いました。

そして平時においても、危急の事態が発生した時にすぐに対応できるよう、常にその身辺に控えている、という役目でもありました。

この役目には、康政と同い年である本多忠勝もまた任じられており、両者は徳川軍における期待の若手として、各地の戦場で活躍していくことになります。

姉川の戦いで活躍する

康政が大いにその力量を示したのが、1570年に発生した姉川の戦いでした。

これは近江において織田・徳川連合軍が、浅井・朝倉連合軍と激突した大規模な戦闘でした。

両軍ともに、息をつく暇もないほどの激しい戦闘となりましたが、やがて家康は浅井・朝倉軍の戦線が伸び切っていることに気がつきます。

そして康政に、朝倉軍の側面を攻撃するようにと命じました。

すると康政は朝倉軍に果敢に攻めかかり、これがきっかけとなって、やがて朝倉軍は崩壊し、敗走し始めます。

これによって均衡が崩れ、浅井軍もまた連鎖的に崩れたち、敗走します。

そこに織田・徳川軍が追撃をかけて戦果を拡大し、勝利を確定させました。

こうして康政は見事な働きを見せ、勝利に大きく貢献したのでした。

その後も三方ヶ原の戦いや長篠の戦いといった、家康にとっての重要な戦いにはすべて参加しており、いずれも武功を立てています。

小牧・長久手の戦いで普請を担当する

1582年に、本能寺の変で織田信長が横死すると、その家臣だった羽柴秀吉が台頭し、家康と対立するようになりました。

そして1584年になると、秀吉が大軍を率いて尾張に押し寄せ、戦いとなります。

家康は小牧山に出陣して防戦に努めることにしましたが、ここには古い城の跡があるだけでした。

この改修工事を康政が担当し、わずか5日ほどで完成させます。

具体的には二重に土塁を設け、堀をほって虎口を作り、大いに防御力を高めることに成功しました。

このように、康政は普請にも長けていたのでした。

別働隊を撃破する

家康は小牧山を守って出撃せず、このために持久戦となります。

康政の工事によって防御力が高まっていたので、こうなると秀吉も簡単には手が出せません。

やがて焦らされた秀吉は別働隊を三河に派遣し、家康の後背を脅かすことにしました。

この動きを察知した家康は密かに小牧山を離れ、主だった武将を率いて迎撃することにします。

康政は他の武将たちとともに支隊を率いて偵察を行い、羽柴軍の位置を補足しました。

そして白山林で休息をとっていた、別働隊の総大将である羽柴秀次を襲撃します。

秀次隊は康政らが迫っていたことにまったく気づいておらず、このために、攻撃を受けるとすぐに壊滅しました。

この戦いで、康政らは秀吉の一族である、木下氏の武将を数名打ち取る戦果をあげています。

その後、双方の主力同士の決戦となった長久手の戦いにも参加し、この戦役でも活躍を見せています。

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