榊原康政 徳川家康に仕えて文武に活躍し、四天王に数えられた名将

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家康に家臣不足を補ってもらう

康政は一躍大名となりましたが、榊原氏は康政の代になって急に出世したので、家臣の数と質が不足していました。

なので10万石を運営できる人材を欠いており、家康の命令で、徳川の直臣から3名が派遣されて家老となっています。

このために彼らは「三家老」と呼ばれましたが、もともとが直臣ですので、後に徳川の旗本に身分を戻してほしいと望みました。

すると二代将軍の秀忠は、子を家老職として榊原氏にとどまらせることを条件に、それぞれに1000石を与えて旗本にもする、という措置をとっています。

このために榊原氏の家老は、榊原氏の家臣であるとともに、秀忠から与えられた領地も継承できるという、特殊な立場に置かれました。

この話からわかるように、榊原家は小さな家だったのですが、そこから10万石の大名にまでなったのは、康政個人の能力が、家康から高く評価されていたことを表しています。

宇喜多家の騒動の調停を行う

備前に領地を持つ宇喜多直家は、秀吉によって取り立てを受け、75万石の大名になっていました。

しかし1599年に、家臣たちの権限を取り上げて中央集権体制への切り替えをしようとしたところ、猛烈な反発を受け、家中が混乱します。

するとこれを鎮めるため、康政と大谷吉継が派遣され、事態の収集にあたりました。

結局のところ、この騒動は家臣たちが大量に処分されたり、宇喜多家から離れることによって収束します。

この時に、宇喜多家の重臣だった坂崎直盛や花房はなふさ職秀もとひでらも離れましたが、彼らはみな徳川の家臣となりました。

これは康政が、そのように仲介したのであろうと推測されます。

この翌年に関ケ原の戦いが起き、宇喜多と徳川は戦っていますが、この騒動によって宇喜多側から経験豊富な人材が流出していたことが、戦況に影響を与えたものと見られています。

なお、康政は調停に手を取られてなかなか離れられず、領地の政務が滞るようになったので、家康の叱責を受けて帰還する、といった事態も発生しました。

家康を守るために兵を大軍に見せかける

1599年は秀吉が亡くなった後ですが、この年には政治的な混乱がいくつも発生しています。

この時期、石田三成が伏見に滞在している家康を襲撃しようとする計画を立てました。

このことが伝わると、3000ほどの徳川兵が東国から急ぎ駆けつけてきます。

康政は彼らに指示を出し、関所を作って人々の行き来を制限しました。

そして兵たちを京都周辺の各地に送り、「家康の兵10万が東国からやってきて、陣を構えている。だから兵糧が欲しいのだ」と触れ回らせました。

関所を設けることで兵数の実態をわからなくし、噂をふりまくことで、家康には10万の軍兵がついているから、簡単に攻めることはできないと、三成に思わせようとしたのです。

康政は単に身一つで駆けつけるのではなく、策を用いて家康の身の安全を確保したのでした。

このようにして、康政は戦場での働きだけでなく、行政や政治、策略など、多方面に渡ってその才能を見せています。

関ケ原の戦いでは秀忠の補佐をする

やがて1600年になると、石田三成が挙兵し、家康を打倒しようとしました。

すると家康は軍勢を二手に分け、一方を自らが率いて東海道を進み、もう一方を秀忠に任せて中山道を進ませることにします。

この時、康政は秀忠に軍監として従い、その補佐をすることになりました。

康政は中山道方面に領地を持っていましたので、そのためにこの配置となったのでしょう。

井伊直政や本多忠勝は、東海道方面を担当しています。

関ケ原に遅参する

家康は自身が出発したのに合わせ、秀忠にも中山道を経由して、美濃を目指すようにと使者を送ります。

しかしこの時、天候が荒れて河川が氾濫しており、使者の到着が遅れ、出発も遅くなってしまいました。

さらに出発した後、秀忠軍は信州上田にある、真田昌幸まさゆきの領地を通りかかりますが、ここで足止めを受けてしまいます。

昌幸は降伏すると偽って時間を稼ぎましたが、やがて嘘だと知った秀忠は怒り、昌幸を攻め潰してから進軍しようとしました。

昌幸は2000程度の小勢でしたので、放置して進むようにと康政は進言しますが、受け入れられませんでした。

そして秀忠の軍勢は昌幸の策略に翻弄され、城を攻め落とせず、時間を空費してしまいます。

やがてあきらめて美濃への進軍を開始しますが、この時にはすでに手遅れでした。

到着した時には戦いは終わっており、秀忠は大軍を率いておきながら、天下分け目の決戦である関ケ原の戦いに間に合わなかったという、重大な失態を演じてしまいます。

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