北条氏規は戦国時代の末期において、外交や軍事に活躍した武将です。
天下の過半を制した豊臣秀吉との外交を担当し、北条氏の存続のために臣従するべきだと主張しましたが、兄の氏政らが承服しなかったため、秀吉の討伐を招くことになりました。
氏規は武勇にも優れており、この戦いでは韮山城に籠もって防戦し、敵の10分の1以下の戦力で城を守り切るという、優れた働きを見せています。
やがて北条氏は滅亡しますが、その後の曲折を経て、氏規の家系が北条氏の名跡を継承することになりました。
この文章では、そんな氏規の生涯を紹介します。
氏康の子として生まれ、駿河に送られる
氏規は北条氏の当主・氏康の5男として、1545年に誕生しました。
幼名は助五郎といいます。
子どもの頃に駿河(静岡県)に送られ、今川義元との同盟を保証するための人質になっていました。
この時に義元の養子になり、次男として扱われていましたので、人質といっても待遇はよかったようです。
北条氏は既に伊豆・相模(神奈川県)・武蔵(東京・埼玉あたり)の三ヶ国を治める大勢力にのし上がっていましたので、氏規が粗略に扱われることはなかったのでしょう。
徳川家康と知り合う
氏規が人質だった時代には、徳川家康もまた、駿河で人質としての日々を送っていました。
氏規と家康は家が隣同士だったので、親しく付き合っていたと言われています。
後に氏規は徳川氏との外交で活躍するのですが、この時の縁が、家康との交渉をやりやすくしたのでしょう。
また、北条氏を外から見るという経験をしたことが、客観的な視点を氏規にもたらしたのだと考えられます。
武芸ではなく戦術を学ぶ
氏規は成長すると、やがて北条氏の本拠・小田原城に戻り、武将としての研鑽を積みました。
そんな折、小田原に剣術の達人と称する者が現れ、小田原在住の武士の多くが、その弟子になります。
そして氏規も弟子入りするようにと勧められるのですが、氏規はこれを拒否しました。
「剣術を身につけてもせいぜい、一人か二人を斬れるようになるだけのことだ。拙者は一度に千も二千も、あるいは五千も一万も斬れるような武将になりたいと思っているから、剣術は習わない。それよりも、兵を率いて勝利するための戦術を身につけたい」というのが氏規の主張でした。
それを聞いた人々は氏規の気概を知り、一目を置くようになった、と言われています。
軍事や外交で活躍する
この頃の北条氏は大勢力となった弊害で、内向きになっていく傾向があり、外交能力が低下していきました。
そんな中、氏規は他勢力との交際を得意としており、上杉謙信や武田勝頼、徳川家康といった周辺の大勢力との外交を担当しています。
特に、人質時代をともにしていた家康とは、その後も良好な関係を保っており、家康と同盟を結ぶ上で、氏規は大きな役割を果たしました。
それ以外にも、1569年には韮山城の守備を担当し、侵攻して来た武田信玄の軍勢を撃退しており、軍事にも秀でたところを見せています。
豊臣秀吉との外交
やがて北条氏は、氏規と兄弟たちの元で順調に発展を遂げ、関東をほぼ制圧し、240万石という大領の主になりました。
しかし、中央では豊臣秀吉が、北条氏をはるかに上回る大勢力を築いています。
そして東海と甲信を支配する家康をも臣従させ、九州征伐も成功させました。
この結果、秀吉に従わない地域はもはや関東と東北だけ、という情勢になります。
秀吉は当初、外交によって北条氏を臣従させようとしました。
そして、かねてより北条氏と同盟を結んでいる家康を通じて、前当主の氏政(氏規の兄)と、現当主の氏直親子に上洛するようにと促します。
【氏規の兄・氏政の肖像画】
家康はこの時、氏規を北条氏の窓口として、秀吉に臣従して勢力を保つようにと伝えました。
家康は氏直に娘を嫁がせており、自分の立場を守る上で、北条氏が存続していた方が有利でしたので、秀吉への臣従を積極的に勧めたのです。
【次のページに続く▼】