氏規は上洛し、秀吉と対面する
これを受け、氏規はまず自身が上洛し、秀吉と交渉を行うことにします。
そして京で秀吉と対面すると、秀吉は慇懃な様子で氏政親子の上洛を求めました。
秀吉は国内の統一を完了させ、次なる目的である中国大陸への進出を行おうと計画していました。
それゆえ、この時点では北条氏を外交によって、なるべく早く、穏便に臣従させたいと考えていたのです。
こういった事情があったため、秀吉は氏規に懇切な対応をしました。
氏規は、秀吉の意向を氏政に伝えると答え、礼を尽くした対応に感謝の言葉を述べます。
しかしそれに加え、氏規は「万が一、氏政親子が上京を拒み、和平が破れて関東に攻め込まれた場合には、いかに親切にしていただいたと言えど、親兄弟を離れて内通することはできません。拙者は必ず先鋒を務め、矢を放って抵抗いたします」と述べました。
これを聞いて秀吉は笑い、「和平が保たれるかどうかは、貴殿の働き次第ではないか。よろしく取りはからい、氏政親子に上京を勧められよ」と述べ、あくまで丁重に氏規を扱っています。
氏規としては、そう簡単に北条が屈すると思ってもらっては困る、という気持ちを現したかったのかもしれません。
そして、自分が秀吉に取り込まれたと身内に思われないようにするために、このように発言したのでしょう。
いずれにせよ、氏規の気概の強さが表れた逸話だと言えます。
北条氏は臣従を決意せず
氏規は上京して秀吉と、上方の様子をつぶさに見た結果、秀吉の勢力は非常に大きなもので、関東を制したと言えど、北条氏の力だけで対抗できるものではないと悟ります。
秀吉は九州から東海にいたるまで、広大な地域を支配下に置いており、北条氏の数倍の実力を備えていました。
このために氏規は帰国すると、兄弟たちに秀吉に臣従するようにと説きますが、氏政も氏直もなかなかこれに応じようとせず、いったんは上洛を約束するものの、期限の引き延ばしを計るなどして、秀吉の感情を悪化させます。
上洛すると、氏政と氏直が秀吉に捕縛され、領地を奪われてしまうのではないか、という怖れも強かったようです。
そして氏政たちは、もしも秀吉が攻め込んで来ても、家康や織田信雄などは秀吉に従わないだろうし、小田原城に籠城すれば、秀吉の攻勢をしのぐことができるのではないかと、楽観的な思考に身を委ねるようになっていきます。
ですので、氏規がいくら「北条氏の存続のためには、なるべく早く秀吉に臣従するしかない」と説いても、この意見が主流となることはありませんでした。
関東に籠もっている他の兄弟たちと、他の地域に出向いて天下の情勢を知っている氏規との間には、認識のズレが生じており、これを埋めることができなかったのです。
これは北条氏に限らず、地方の大名家には必ず見受けられる現象でした。
たとえば家康にしても、秀吉に臣従する前は、家臣たちの大半が秀吉に反感を抱いていたため、なかなか決断できない状況にありました。
それでも家康は最終的に、秀吉の侵攻を受ける前に臣従したことで、勢力の維持に成功しています。
北条氏はそれができなかったために、滅亡の淵に追い込まれていくことになりました。
上野の事件をきっかけに関東征伐が始まる
北条氏が臣従をはっきりと決断しないことに、秀吉がいらだちを募らせていた頃、上野(群馬県)で事件が発生します。
上野はこの頃、大半を北条氏が支配し、一部を真田昌幸が支配する状態になっていました。
真田昌幸は秀吉に臣従し、その領地を保証されている状況にあります。
これを北条氏の武将・猪俣邦憲は快く思っておらず、真田氏から領地を奪って上野の完全制覇を果たそうと考えました。
(これは氏規の兄、氏邦の意向を受けていたとする説もあります。)
そして1589年になると、ついに真田氏の拠点である名胡桃城を襲撃し、これを奪取してしまいました。
これは秀吉に対する明確な敵対行為であり、秀吉が関白の名の下に出していた、私的な戦闘行為を禁止する惣無事令にも違反していました。
秀吉はこの猪俣の行動によって、北条氏を討伐する大義名分を得て、ついに1590年の3月から、関東征伐を実施することにします。
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