松平元康が徳川家康を名のるまで

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征夷大将軍となり、幕府を開いて天下を制した徳川家康は、その生涯において何度も名前を変えています。

はじめは人に支配される立場から始まり、やがて独立し、三河の国主となるに従って、その名前も変遷していきます。

この文章では、家康の名前の変遷が、どのようなきっかけで発生したのかについて、書いてみようと思います。

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【松平元康こと、徳川家康の肖像画】

幼名は竹千代

家康は1543年に、三河(愛知県西部)の豪族・松平広忠の嫡男として誕生しました。

幼名は竹千代といいます。

(この時代には貴族や武家の子に、幼児の間にだけ用いる名前をつける風習があり、それを幼名といいます。)

この頃の松平氏の勢力は弱体化しており、尾張(愛知県西部)の織田信秀からの圧迫を受けて危機に陥っていました。

このため、松平広忠は駿河や遠江(静岡県)を支配する今川義元の庇護を求め、家の存続を図ります。

人質になる

今川義元から従属の証として人質を送るように要求され、松平広忠は竹千代を義元の本拠である駿府城に送ることになります。

この時の竹千代はわずか4才でした。

竹千代の護送は、今川氏に従属する三河の豪族・戸田康光に任されました。

しかしこの戸田康光が織田信秀に寝返ってしまいます。

こうした事情より、竹千代は父と敵対する織田信秀の元に送られてしまいました。

織田信秀からすると、松平氏が今川氏に従属してしまうと、三河への侵攻がやりにくくなりますので、その嫡男の竹千代を預かっておく価値は十分にありました。

このように、幼いころの家康は、周囲の思惑によってあちらこちらに送られてしまう、弱い立場に置かれていました。

今川義元の奪還作戦

今川義元からすれば、せっかくの人質を織田信秀にさらわれてしまう形になりましたが、もちろんそのまま黙って見過ごすことはありませんでした。

竹千代を取られても松平広忠は今川氏への従属の姿勢を堅持していましたので、それに応えるためにも奪還を図る必要がありました。

今川義元は腹心の太原雪斎に2万という大軍を率いさせ、織田方の安祥城を攻撃させます。

太原雪斎は城を包囲して陥落させ、城主の織田信広を捕縛しました。

この織田信広は織田信秀の庶長子(側室の子)であり、織田方にとっては重要人物です。

太原雪斎は織田信広と竹千代の人質交換を持ちかけ、これに成功します。

駿府に送られる

こうして竹千代は今川氏に引き取られ、かねてからの予定通りに義元の本拠地である駿府に送られました。

この時の竹千代は6才でした。

それから数年間は人質として、忍耐の日々を強いられることになります。

竹千代は鷹狩が趣味だったのですが、ある時、飼っていた鷹が隣の屋敷に入り込んでしまいます。

なので、隣の屋敷を訪れて鷹を返してくれるように頼んだのですが、「人質のくせに鷹狩をするなど生意気だ」と侮辱の言葉を浴びせられ、屈辱を受けるなどしています。

この時、隣の屋敷にいた武将は孕石主水(はらみいし もんど)といい、後に家康が駿河の支配者となった際に、この時のふるまいをとがめられ、切腹させられています。

家康からすれば、いつまでも忘れられない、子どもの時代の嫌な思い出だったのでしょう。

屈辱というのは、与えた側は忘れてしまっても、受けた側はなかなか忘れられないものであるようです。

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