松平元康が徳川家康を名のるまで

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信長との同盟

1562年には、伯父・水野信元の仲介により、敵対していた織田信長との間に同盟を結ぶことになります。

これによって西の織田氏と同盟し、東の今川氏と敵対するという外交的な方針が固まりました。

織田信長からすれば東からの脅威がなくなるわけで、相互に利益のある同盟でした。

この同盟は「清洲同盟」と呼ばれ、織田信長の死まで、20年にも渡って継続していくことになります。

この時代の同盟は状況の変化次第で簡単に破られることが多く、ここまで長く続く同盟は、かなり珍しいものでした。

元康は一度決めると簡単に方針を変えない断固とした意志の持ち主でしたが、そのあたりが織田信長との同盟の堅持にも現れています。

元康から家康へ

清洲同盟の翌年に、元康から名前を変えており、後世にもよく知られた「家康」が誕生します。

「元」の字を捨て去ることで今川義元と完全に決別し、今川氏からの独立を強く宣言したことになります。

この「家」の字は源氏の先祖である源義家にあやかったとも、書経の句にある「家用平康」から取ったとも言われています。

こうして家康は名前の上でも自立し、三河の統一に向けて突き進んでいくことになります。

三河の統一

1564年には、家中が2つに割れる三河の一向一揆が発生し、思わぬ形で家康は家臣たちと戦うはめになってしまいます。

しかしこれを半年の戦いの末に鎮圧し、三河から一向宗の勢力を駆逐することに成功します。

そして三河の豪族を取り込んだり、今川氏との攻防を繰り広げつつ、勢力を順調に拡大していきます。

1566年までには三河の統一に成功し、ついに家康は一国の主になりました。

これを受け、家康は今度は改姓をすることになります。

三河守への叙任要請

三河の実効支配に成功した家康は、それにふさわしい名分を得るため、朝廷に三河守の官位への叙任を要請します。

この頃の朝廷の権力はなきに等しいものでしたが、古くからある三河守の官位を授かることには、三河支配の立場を正当化する上で、それなりの効果があったのです。

しかし朝廷は、清和源氏が三河守に叙任された前例がないことを理由に、これを認めませんでした。

松平氏は祖父・清康の頃から清和源氏を自称していたのですが、思わぬ形でこれが障害となってしまいました。

そこで家康は近衛前久(さきひさ)という人物に相談します。

近衛前久は武家との付き合いが多い公家で、家康以外にも多数の武将との関わりを持っています。

そして徳川家康へ

この近衛前久が奇策を提案し、家康はこれに乗って、松平氏から徳川氏へと復姓(姓を元のものに戻すこと)をすることになります。

松平氏の祖先は清和源氏の世良田氏だ、ということになっていました。

この世良田氏はかつて得川氏を名のったことがあり、この得川氏は「藤原氏の一族である」と称していたことがありました。

つまり、得川氏であればかつて三河守だったことのある藤原氏の一族なので、三河守になるのに支障がない、ということになります。

このため、得川氏を称することによって家康は三河守になれる、というのが近衛前久が提案した奇策の正体でした。

なんともややこしい話ですが、前例踏襲主義の朝廷においては、こうした手続きが必要だったようです。

こうして家康は徳川氏を名のり、一族の中で彼だけが藤原氏を称することになります。

そのかいあって、1566年に三河守に無事叙任され、「徳川家康」がこの世に誕生することになりました。

「得」川ではなく「徳」川としたのは、そちらのほうが意味や縁起のいい文字だからです。

こうして一個の戦国大名としての立場が確立され、以後の家康は、名を変えることなく生涯を過ごすことになります。

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