元服して松平元信を名のる
1555年、13才となった竹千代は、元服(成人)して松平元信を名のります。
この「元」の字は今川義元から与えられたものであり、松平氏が今川氏に支配されていた立場を象徴しています。
(「信」の字は、代々の松平氏の当主が用いていた字の一つでした。)
父・広忠はこれより数年前に家臣に殺害されており、松平氏の勢力は完全に今川氏に取り込まれてしまいます。
この関係をさらに強固なものにするため、今川義元は元信と自身の姪の瀬名姫を結婚させます。
元信はこの頃、このようにして心身ともに今川義元に抑え込まれていましたが、一方で、父を早くに失っていたことから、頼りにする気持ちもあったかもしれません。
松平元康に改める
その後で、元信から「元康」へとさらに名を改めています。
この「康」の字は祖父の松平清康からとったものです。
清康は若くして西三河の統一に成功した、武勇に秀でた武将でしたが、家臣の裏切りによって暗殺されており、それが松平氏が衰退する原因になっていました。
その祖父にあやかろうという気持ちが、元康にはあったのかもしれません。
1558年に、16才で元康は初陣を飾っています。
今川氏から織田氏に寝返った寺部城の城主・鈴木重辰を攻め、城下を焼き払うなどの戦功を立てます。
これによって旧領のうち300貫を義元から返還され、武将としての活動を開始します。
そしてその2年後には、今川義元の尾張への侵攻作戦に参加することになります。
桶狭間の戦い
今川義元は1560年に、駿河・遠江・三河の3カ国の兵を集め、2万という大軍を編成して尾張に攻め込みました。
この時の尾張の支配者は、織田信秀から子の織田信長へと代替わりしています。
織田信長の兵力は5千程度でしたので、今川方が圧倒的に有利な情勢にありました。
元康はこの戦いで先鋒を任され、織田方の前線基地である丸根砦を攻め落とすという戦果を上げています。
そして今川方の大高城に入城し、休息していたところに異変が起きました。
今川義元が桶狭間で織田信長の襲撃を受け、その首を取られてしまったのです。
これによって今川方は総崩れとなり、各部隊はそれぞれの領地に向かって撤退しました。
元康も急ぎ大高城から退去し、三河にある大樹寺まで移動します。
この寺は松平氏の先祖が葬られている菩提寺であり、古くからの関わりがある寺です。
それまで圧倒的な権勢を誇っていた今川義元の死に元康は動揺し、自害することすら考えました。
元康にとって、今川義元はそれほどまでに大きな存在だったのでしょう。
また、元康は逆境に遭遇すると逆上しやすい性格でもありましたので、自害という飛躍した行動に取り憑かれてしまったようです。
しかし大樹寺の住職から諭されて考えを改め、松平氏の復興を志すことになります。
今川氏からの独立
【家康と同盟を結んだ織田信長の肖像画。彼は成人後に名前を変えたことがない】
松平氏の本拠は西三河にある岡崎城でしたが、ここは今川義元が存命中に代官が置かれており、今川氏に奪われた状態になっていました。
しかし桶狭間の敗戦によってその代官も逃亡してしまったため、岡崎城は空き城となっていました。
元康はこの機を活かして岡崎城に入城し、これを占拠します。
こうして思わぬ形で元康は自身の城を取り戻すことができました。
そして今川氏から独立を果たすため、独自の軍事行動を取り始めます。
桶狭間の戦いの翌年には、東三河にある今川方の拠点・牛久保城を攻撃しており、今川氏からの離脱を明らかにします。
その後も西三河の各地を攻略するなどして、急速に勢力を伸ばして行きました。
このあたりの素早い行動は、祖父の清康譲りのものだったのかもしれません。
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