徳川家康はどうして大坂の陣で豊臣秀頼を滅ぼしたのか?

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徳川家康は1615年、大坂夏の陣と呼ばれる戦いで豊臣秀頼を滅ぼしました。

家康が天下人になったのは1603年のことで、それから約10年の間、豊臣家を臣従させようと試みるなどしていましたが、最終的にはその血を絶やしてしまっています。

この文章では、家康がどうして豊臣家を滅ぼすに至ったのか、その過程について書いてみます。

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【江戸幕府の基盤を築いた徳川家康の肖像画】

関ヶ原の戦いに勝利する

家康は豊臣秀吉の死後、天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いに勝利し、征夷大将軍に就任しました。

そして江戸に幕府を開き、日本全土の統治体制の構築を進めていきます。

全国の大名を従え、江戸を発展させ、後に264年も続く徳川家の支配を確立することになるのですが、そのための障害になるのが、豊臣家の存在でした。

豊臣秀吉はかつて関白の地位について天下人になり、家康の前に日本の支配者になっていました。

その時代には家康も秀吉に臣従していたため、関ヶ原の勝利後も、徳川家は豊臣家の家臣のままでした。

そういった経緯があったため、家康が将軍の地位を得て名実ともに天下の主となった後も、豊臣家だけは徳川家の臣下になっておらず、独立状態を保っていました。

秀吉の子で、豊臣家の当主である秀頼はまだ幼かったため、秀吉の死後に天下人の地位を継承することはできませんでしたが、彼が成人したあかつきにはどうするべきなのか。

徳川家は豊臣家に政権を返すのが道義的には正しい、ということになります。

もちろん家康にはそのつもりはなく、この対応には頭を悩まさせられることになります。

秀忠への将軍位の継承

家康が征夷大将軍となったのは1603年のことでしたが、その2年後には早くも後継者である秀忠に地位を譲っています。

これにより、今後は徳川家が政権を代々継承していく意向であることを内外に示します。

家康は秀頼に、京都まで出向いて将軍となった秀忠に面会するようにと要請しますが、拒絶されています。

もともと家康の将軍就任の際に、秀頼が同時に関白に就任するのでは、という予想がありましたが、これは実現しませんでした。

その上で秀忠に将軍位を譲っており、家康が豊臣家に政権を返上する意志がないことがさらに明確になったわけです。

このことが、豊臣家が徳川家への反発を抱く原因になりました。

もしも秀頼が関白になってしまえば、豊臣家の天下相続を認めることになり、政権が大坂と江戸の二重構造になってしまいます。

苦労して政権を豊臣家から奪った家康がそれを認めるはずもありませんでしたが、あまりに豊臣家を軽視すれば、京都・大坂の民衆や、豊臣家と関係の深い西国の大名たちからも反発を受けることになります。

そのため、家康は自身の引退で空位になった右大臣の地位を秀頼に譲る、という対応でお茶を濁すことになります。

右大臣も十分に高い官位であり、将来は関白になれるのかもしれない、という希望を豊臣家に持たせ、感情を和らげる目的もありました。

そして秀忠は右大臣よりも下の内大臣であり、官位では秀頼の方が上回るようになっています。

こうした措置により、権力では将軍の秀忠が勝っているものの、権威では秀頼の方が上、という状態になりました。

こうしてだましだまし、といった感じで家康は秀忠への将軍位の継承を終えました。

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