豊臣恩顧の大名たちの死
この二条城での会見の後、不自然なほどに大名たちの死が相次ぎます。
会見後、加藤清正と浅野長政が急死します。
そして1613年には長政の子・幸長(よしなが)が死亡し、二条城の会見に同席した池田輝政も死去します。
こうして二条城の会見に関わった大名たちが次々とこの世から去り、豊臣家を守る意志のある大名は、福島正則を除いていなくなってしまいました。
浅野長政はすでに隠居しており、高齢であったために死去してもさほどおかしくはないのですが、幸長はまだ若く、家康による暗殺説もあるようです。
加藤清正はもともと持病を抱えてはいましたが、時期が時期だけに、こちらにも暗殺説があります。
このあたりの真偽は不明ながらも、結果として豊臣家はすっかり孤立した状態になってしまいました。
家康にとっては、豊臣家を排除するに容易な状況が作られたことになります。
方広寺鐘銘事件
この頃の豊臣家は家康の勧めを受け、各地の寺院の再建事業を行っていました。
これは豊臣家の持つ莫大な富の消費を狙ってのことだとされています。
そのうちの一つ、方広寺の再建を行った際に事件が起きました。
方広寺に設置する鐘に刻まれた銘文に問題があると、徳川家が豊臣家を糾弾したのです。
問題となったのは「国家安康」という言葉で、これが「家」と「康」を離して用いており、大御所である家康の名をそのように使うのは不敬である、として豊臣家を非難します。
これは当時の常識からすると批判されてもおかしくはないのですが、開戦の事由にするほどの大事であるかというと微妙で、これを口実として家康が利用したのは確かです。
その証拠に、この鐘は豊臣家が滅ぼされた後もそのままとなっており、現在でも破壊されることなく方広寺に残されてます。
本当にこの文言自体が問題であったのなら、鐘も潰されるか、文言が削られるかしていなければおかしいはずです。
鐘が残っているところに、ただの口実だったという事実が示されています。
これに対し、豊臣家は家老である片桐且元を家康の元に遣わして弁明しようとしますが、家康は会見すらせずにこれをはねつけます。
且元は秀頼の大坂城からの退去を条件に事態を沈静化しようとしますが、今度はこれを豊臣家に拒否され、板挟みとなって身動きが取れなくなります。
ちなみにこの時、家康は別口から訪れた使者・大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)には和平を約束するという対応を行って、且元との話に齟齬をもたせ、且元の信用を失わせるという小細工も用いています。
そのため、豊臣家は且元に不審を抱き、家康に内通しているとして追放します。
これが家康の思う壺で、窓口となっていた且元の追放によって、交渉が決裂したことになります。
そして豊臣家が大坂城に浪人たちを集めているのは、徳川家への攻撃を目論んでのことだと断じ、豊臣家に宣戦を布告します。
(実際には家康の攻撃を恐れて軍備を強化していたのでしょうが)
こうしてついに、大坂の陣の戦いが始まることになります。
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