野外決戦
既に述べた通り、この時には大坂城には城塞としての防御力がなくなっていたため、豊臣軍は城の外に出て野戦を行なわざるを得なくなります。
浪人衆の大将であった真田信繁や毛利勝永らは家康本陣を切り崩し、家康自身の命を奪い、逆転勝利することを狙います。
そして計画どおりに毛利勝永隊が家康本陣の防衛部隊を蹴散らし、真田信繁隊が突撃を敢行します。
これによって家康の本陣が切り崩され、家康も自ら逃走するはめになります。
しかしこの決死の攻撃によっても戦況は覆らず、やがて真田信繁は討ち取られました。
そして毛利勝永隊も大坂城に退却し、数で圧倒した徳川方は、大坂城を落城させます。
そして追い詰められた秀頼は母の淀殿と共に自害し、豊臣家は滅亡しました。
家康の死
家康は秀頼の死の翌年、鷹狩の最中に胃の病で倒れ、4月に死去しました。
晩年の口癖は「ざっと済みたり」というものだったそうです。
これは徳川政権を堅固にするために、やるべきことはだいたいやり遂げた、という意味です。
その中にはもちろん、豊臣家を滅ぼしたことも含まれているでしょう。
方広寺の事件あたりの家康の行動からは、何がなんでも豊臣家を滅ぼすという執念が感じられます。
そうして実際にしとげたことで、徳川政権は264年もの長きに渡る長期政権となりました。
しかし一方で、生涯の最後に悪行を働いたことで、後世の人間が家康に抱く印象を悪化させてしまってもいます。
見方を変えれば、家康は念願である徳川家による政権の安定のために、自分の評判を犠牲にすることも厭わなかった、とも取れるわけで、どちらをより重視するかによって、その行動への評価は別れるかもしれません。
その後の豊臣家
秀頼には国松という子がいましたが、捕らえられて処刑されています。
娘は出家することを条件に助命され、東慶寺の尼となって子を持つことなく生涯を終えました。
こうして家康の執念によって、秀吉の血統は絶えたことになります。
秀吉は豊国大明神という神号を持っていましたが、豊臣家の滅亡後に廃されています。
しかし徳川政権が滅んだ明治維新の後で復活し、かの方広寺の大仏殿跡で再び祀られるようになっています。
言わば、家康が全霊をかけて豊臣家にかけた呪いが、そこでようやく解消されたのです。
全てが終わった後から振り返ると、問題となった鐘銘の「国家安康(国家を安定させる)」とはいかなることなのかと、ふと考えてみたくもなるやもしれません。
【方広寺の鐘の様子。「国家安康」と刻まれている】