石田三成と柿の逸話

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【石田三成の肖像画】

石田三成は1600年に、徳川家康と関ヶ原で決戦を行いました。

これは家康が豊臣家から天下の支配権を簒奪(さんだつ)しようとする動きを見せたため、三成が家康を打倒して豊臣家の政権を守ろうとしたことに起因しています。

三成は毛利輝元や宇喜多(うきた)秀家といった大大名たちと協力関係を結び、10万もの大軍を集めて「西軍」を結成しました。

そして江戸から美濃(みの)(岐阜県)にまで、総勢8万の「東軍」を率いて進軍してきた徳川家康と戦います。

しかし、西軍からは小早川秀秋などの裏切りが相次ぎ、戦おうとしない武将も多く、三成は大敗を喫しました。そして戦場から逃亡します。

逃亡するも捕らえられ、処刑される

三成は自身の領地がある近江(おうみ)(滋賀県)方面に潜伏するのですが、やがて同地の出身で、土地勘のある田中吉政という武将に捕縛されてしまい、家康の前に引き出されます。

家康からは「勝つも負けるも時の運だ」と慰められますが、三成は毅然とした態度を貫き、「あなたに挑戦したことを後悔していない」と述べました。

やがて三成は京都に送られ、小西行長や安国寺恵瓊(あんこくじえけい)ら、西軍で主要な役割を果たした大名たちと一緒に、六条河原で処刑されることになります。

この時に三成は処刑場の警備兵に対し、「喉がかわいたので、白湯(さゆ)でもくれないか」と頼むのですが、「柿でもかじって我慢しろ」とすげなく言われます。

これに対して三成は「柿は(たん)の毒になる(喉に悪い)からいらぬ」と傲然と言い、断りました。

「処刑される直前なのに、今さら体を気づかって何の意味があるのだ」と笑われますが、三成は自分の志を遂げることを、死の直前まであきらめていなかったからこそ、このような発言をしたのだと言われています。

このように剛直なところが三成にはあり、それゆえに「横柄だ」と人から批判されることも多かったようです。

一方で、三成は強大な家康に挑戦するだけの勇気を備えていたわけですが、それだけの気の強さが、この逸話にも表現されているのだとも言えます。

なお、実際には柿が喉に悪い、ということはありませんので、ご心配なく。

三成がこれを勘違いしていたのか、そうでないのかは不明です。

あるいは、死を目前にした者に対し、「白湯を飲みたい」というささやかな希望すらかなえてくれない警備兵の不人情に怒りを感じ、お前からもらう柿など口にしても、喉を通らぬわ、痰でも吐きたくなるわ、と言いたかったのかも知れません。

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