井伊直虎は激しい動乱が続く戦国時代に、女性でありながら一族の当主となり、滅亡の危機に瀕していた井伊氏を存続させることに成功した人物です。
井伊氏は遠江・浜松湖近くの井伊谷を500年に渡って支配していた国人領主で、駿河の今川義元の勢力に属していました。
直虎はその井伊谷の城主・井伊直盛の娘として誕生しています。
生まれた年ははっきりとしていませんが、1536年頃だったと推定されています。
従兄弟との婚約
父・直盛には娘の直虎の他に子がいなかったため、親族から男子を養子に迎え、後継者にすることにします。
そしてこの時に選ばれたのが、直虎の従兄弟の井伊直親でした。
しかしこの従兄弟の父(つまり直虎の叔父)が、1544年に今川義元への謀反の疑いをかけられ、自害させられてしまいます。
この時に今川義元に偽りの告げ口をしたのは、小野道高という井伊氏の家老でした。
小野道高は家老という立場でありながら、主家をおびやかすほど勢力が強く、やがては井伊氏を追い落とし、井伊谷の支配者になることを狙っていました。
そのため、機会を見つけては井伊氏を陥れるような策謀を繰り返していました。
婚約者の逃亡と、出家
今川義元から疑われ、小野道高から命を狙われた婚約者の井伊直親は、隣国の信濃に逃亡します。
この時に直虎は出家し、次郎法師と名のるようになります。
この「次郎」と「法師」は井伊氏の相続者が名のる名前で、この時点では直虎に将来の後継者となる資格が残っていたことになります。
出家したのは、直親と婚約していたので、謀反にくみした一族とみなされるのを避けるためだったものと思われます。
疑いは後に晴れ、直親は1555年ごろに井伊谷に戻り、今川義元に再度出仕しています。
しかし、信濃に逃亡していた時期に遠江の国人領主・奥山氏の娘と結婚しており、直虎との婚約は破棄されてしまいました。
(あるいは、直虎が出家していたために結婚できず、他家から妻を迎えたという説もあります)
こうして直虎は陰謀の影響を受けて婚約者を失い、出家のまま、独身で時を過ごすことになります。
父と今川義元の戦死
1560年になると、今川義元が大軍を率いて織田信長が支配する尾張に侵攻し、直虎の父・直盛もこれに従軍します。
この時の今川軍は2万ほどで、織田軍は5千程度でしたので、さほど危険のない戦いのはずでした。
しかし今川義元が率いる本隊は、織田信長に奇襲をしかけられて壊滅します。
この「桶狭間の戦い」で、本隊に所属していた直盛は戦死してしまい、かつての直虎の婚約者であった、直親がその後を継ぐことになります。
この戦いでは総大将である今川義元も戦死しています。
その機をつき、属国であった三河では松平元康(後の徳川家康)が独立を宣言し、今川氏の支配から脱します。
こういった情勢の変化から、今川氏は領地の統制力を失い、家臣たちに疑いの目を向けるようになっていきます。
かつての婚約者・直親の死
そして桶狭間の戦いから2年後、直親は義元の後を継いだ今川氏真から謀反の疑いをかけられてしまいます。
この時には小野道好(道高の子)に讒言をされたのが原因でした。
小野氏は直親とその父、二代にわたって井伊氏に災厄をもたらしたことになります。
直親は駿河に申し開きに向かう途中で今川氏真の家臣に襲撃され、殺害されてしまいます。
こうして小野氏は井伊氏にとって、仇敵とも呼べる存在になりました。
2人の当主をわずか2年の間に続けて失ったわけで、井伊氏の勢力はひどく危ういものとなっていきます。
相次ぐ一族の死と直虎の還俗
さらに1563年には、直虎の曽祖父・井伊直平も遠江での戦いの際に急死します。
この死の原因ははっきりしていませんが、時期からして、小野氏によって暗殺された可能性もあるでしょう。
その他にも重臣の中野直由や、親族の新野親矩が相次いで戦死するなどして、井伊氏の勢力は急速に衰えていきます。
この時期の遠江は今川氏の領地のままでしたが、実力者であった今川義元の死によって、その影響力が低下していました。
遠江の各地の小領主たちは、このまま今川氏に仕えていていいのか迷い始め、情勢は混迷していきます。
そのため、遠江の領主同士での戦いも数多く発生しており、その流れの中で井伊氏の武将たちは次々と戦死していくことになりました。
先に謀殺された直親には、虎松という子がいましたが、この時はまだ幼く、井伊氏の当主になれる状態ではありません。
こうして一族に主だった男子がいなくなったため、1565年に直虎は還俗し、井伊氏の当主を務めることになります。
井伊氏の系図には当主として記録されておらず、あくまで中継ぎとしての立場でした。
虎松を養子とし、彼が成人するまでの間、井伊氏を存続させることがその使命となります。
【次のページに続く▼】