次郎法師として領地の統治を行う
直虎は仮の当主となってからも、書状では出家の際の「次郎法師」の名を使い続けました。
これは井伊氏の惣領(後継者)の通称であり、同時に出家した僧としての名前でもありました。
この名のりによって井伊氏の勢力と、宗教的な権威を合わせることで、自身の井伊谷統治の正当性を高めようとする意図がありました。
直虎は井伊谷の領主たちの領土を安堵するなどして統治を進めていきますが、やがて再び小野氏からの妨害を受けることになります。
徳政令をめぐる争いと井伊谷の失陥
1566年になると、今川氏真が井伊谷に、借金を棒引きにする「徳政令」を出すようにと命令を出してきます。
この頃には今川領は混迷を極めており、領民たちへの人気取り政策として徳政を行っていました。
そしてその実施を直虎にも迫ってきたのです。
直虎は債権者である貸し主との結びつきが強かったため、これを2年に渡って実行しませんでした。
しかし今川氏真や、借り方である農民たちと結託した小野道好からの圧力を受け、これを了承せざるを得なくなります。
圧力に屈したことで小野道好の勢力が増大し、ついに1568年には、居城である井伊谷城を奪われてしまいました。
徳川家康の介入
この時には、小野道好に反旗を翻した井伊谷の武将たちと、遠江に進出していた徳川家康の支援もあって、城を奪還することができました。
そして直虎は家康に嘆願し、小野道好がかつて直親を讒言によって陥れた罪を問い、処刑させることに成功します。
小野道好は徳川氏と敵対している今川氏との結びつきが強く、それを利用して井伊氏を苦しめてきました。
徳川家康からすればそのような立場の小野道好は、自身の遠江支配の上で邪魔になる存在だと判断したのでしょう。
徳川氏は今川氏から、遠江を奪おうとしていたからです。
一方で井伊氏は、家康の妻・築山殿を介して徳川氏と縁戚関係にあったため、井伊氏を取り立てるほうが家康にとっては好都合でもありました。
こうして直虎は、政治的な手段によって、井伊氏を苦しめた小野氏との対立に決着をつけることができました。
武田の侵攻
徳川氏が遠江を支配するようになり、井伊氏はその傘下に入りますが、息をつく間もなく武田信玄の遠江侵攻が開始されます。
そして1572年になると、信濃から武田軍が井伊谷にも攻め込んできます。
この時に直虎は、井伊谷城を武田軍の武将・山県昌景に明け渡しました。
こうして再び城を失った直虎は、徳川氏の浜松城に退去することになります。
この後も武田軍の侵攻は続き、家康も「三方ヶ原の戦い」で大敗するなどして危機に陥ります。
しかし、武田信玄の病死によって武田軍は撤退せざるを得なくなり、窮地を脱することができました。
こうした情勢の変化により、直虎は再び井伊谷城を取り戻すことができました。
(余談ですが、山県昌景は「赤備え」と呼ばれた精強な軍勢を率いており、後にこの名称を井伊氏が引き継ぐことになるという、奇縁があります)
虎松の仕官
1575年に直虎は14才になっていた直親の遺児・虎松を家康に出仕させます。
虎松は一時期は小野道好に命を狙わたため、出家をさせて隣国の三河の寺に預けられるなどしていました。
親族たちが力を合わせて守り抜き、無事に成長させ、武士として仕官できるところまでこぎつけたことになります。
虎松は井伊万千代と名のり、武田氏との戦いで数々の戦功を上げるなどして活躍します。
こうして直虎は井伊氏を滅亡の危機から切り抜けさせ、徳川氏の元で安定した地位を得ることに成功しました。
それから7年後、ようやく平安な時を得た直虎は1582年に死去し、万千代が後を継ぐことになります。
直虎の享年は、46才だったと推定されます。
【直虎のお墓がある龍潭寺の山門】
その後の井伊氏
直虎の死後、万千代は井伊直政を名のり、家康の元で活躍を続けます。
戦功を上げるだけでなく、外交や内政面でも優れた才能を見せ、家康にとって、なくてはならないと言える存在にまで成長していきます。
そして家康の養女と結婚し、家臣筆頭の地位にまで上りつめました。
後に井伊氏はこの直政の元で、彦根藩30万石の大名にまで発展しています。
直虎の井伊氏存続のための苦闘は、こうして大きな実りを得るに至りました。
直虎の事跡と信憑性
言うなれば急場しのぎの策として井伊氏の当主となった直虎ですが、厳しい情勢の中、2度も城を失いながらも滅亡にまでにはいたらず、井伊氏を存続させたことについては評価されるべきでしょう。
武将にとっては通常、城を失うことは命や立場を失うことにつながりますが、相手が強勢であればいったん退避して、情勢が変化するのを待つ柔軟な行動が取れたのは、女性ならではと言えるかもしれません。
女性でありながら当主になった、ということで何かと有名な直虎ですが、実は史料は少なく、その事跡や生涯についての正確な記録は乏しい状態です。
直親との婚約は創作であり事実ではなかった、という説もあるようですが、直虎のお墓は直親の隣に建てられるなどしています。
確かな資料がない以上、どちらの説を取るかは、読み取る人に委ねられているのだとも言えるでしょう。



