加藤清正は豊臣秀吉に仕え、肥後(熊本県)の大名になった武将です。
軍事だけでなく財務や内政、築城も得意としており、肥後の発展に大いに貢献しました。
民衆からの支持を受けて死後に神格化され、「清正公(せいしょこ)さん」と呼ばれて親しまれ、今でも信仰の対象になっています。
晩年には豊臣氏と徳川氏との対立の緩和に尽力し、政治家としても成熟した姿を見せました。
この文章では、そんな加藤清正の生涯について書いてみます。
【加藤清正の肖像画】
秀吉の縁者として生まれる
清正は1562年に尾張(愛知県)の中村で生まれました。
中村は秀吉の生地でもあり、母の伊都は秀吉の母・大政所の従姉妹でした。
このため、生まれながらにして秀吉との縁が深かったことになります。
父は加藤清忠という人物で、若い頃は斎藤道三に仕えた武将でした。
しかし戦場で負傷したことをきっかけに武士をやめ、鍛冶屋を営んでいました。
父は清正が2才の時に死去しており、以後は母の実家(こちらも鍛冶屋)で育っていきました。
清正は築城や治水工事などの工作技術への関心が強い人物でしたが、そのような生育の環境に影響を受けていたと思われます。
秀吉の小姓となる
1573年に秀吉は近江(滋賀県)の長浜城主に任じられ、12万石の領地を治める大名となります。
この頃から秀吉は若手の人材を集め始めており、11才になった清正は小姓として採用されています。
小姓は身分の高い武士に仕え、身辺の雑用を担う役目です。
そうして見習いとして働き続けると、3年後には170石を与えられ、一人前の武士としての身分を手に入れました。
秀吉は親類だったこともあって清正をかわいがり、子飼いの武将として育成していきます。
福島正則や石田三成、大谷吉継らも清正と同じ時期に秀吉の小姓となり、目をかけられています。
彼らはいずれも、戦場で活躍する武将になるための技能だけでなく、行政官になるための学問も仕込まれていたようで、いずれも多方面で活躍できる人材として育っていきます。
戦場で活躍する
清正は秀吉が中国地方の攻略戦を担当していた時期から戦場に出るようになりました。
1581年に備前(岡山県)の冠山城を攻めた際に、清正は城内への一番乗りを果たし、竹井将監という武将を討ち取る戦功をあげています。
やがてその翌年には、本能寺の変で秀吉の主君、織田信長が死去します。
すると秀吉は、信長の後を継いで天下人となるべく活動を始めるようになり、清正の身分も大きく変化していくことになります。
1583年には秀吉と、信長の重臣だった柴田勝家の間で「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」という大規模な決戦が行われました。
これは信長死後の主導権を巡る、織田氏内部の抗争の結果として生じた戦いでした。
互いに主力を繰り出して一進一退の攻防となった際に、秀吉は清正や福島正則ら、側仕えをしていた若武者たちを最前線に投入しました。
彼らはそれぞれに敵の指揮官を討ち取るなどして軍功を立て、「賤ヶ岳の七本槍」というキャッチコピーで世に知られる存在になっていきます。
秀吉は自分の手元にはこんなに若く優秀な武者たちがいるのだぞ、と喧伝することで、人材が豊富なのだと世間に思わせたかったのでしょう。
この措置によって清正の身分は大きく上昇し、一躍3000石の領地を与えられました。
これは150人程度の兵を指揮する身分で、清正はしばらくはこの待遇で秀吉に仕え続けることになります。
内政・財務官として活動する
清正は豪傑としての印象が強い人物ですが、秀吉からは内政や財務の才を評価されており、若い頃は主にそちらの仕事を任されています。
秀吉が関白となった際に主計頭(かずえのかみ)という、税収を司る官位を与えられており、この点にもそれが表されています。
秀吉は賤ヶ岳以降も、四国征伐や小牧・長久手の戦い、九州平定などの大規模な戦いを行っていますが、清正は主に秀吉の身辺警護や後方支援などに当たっており、率いる兵数は150人程度の小規模なものにとどまりました。
このあたりの扱いを見るに、この頃には戦場での働きはさほど期待されていなかったようです。
どちらかというと石田三成に近い立場で、豊臣氏の領地の代官を務めて徴税業務をこなしたり、九州平定後に戦後処理にあたって統治体制の下地作りを行ったりと、内政の仕事を多くこなしています。
一時は堺の代官をしていたこともあり、この頃に商品の売買に関する知識を身につけていきました。
このあたりの経験が、後に肥後の大名になった時に役立てられることになります。
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