急死
しかし清正は大坂からの帰路で発病し、会見から3ヶ月後には熊本で死去してしまいます。
享年は49でした。
死因は腎虚という免疫不全の病であったと言われていますが、大事な会見の直後だっただけに、毒殺されたのではないかという噂が立ちました。
同年に浅野長政も死去しており、2年後にはその嫡男の幸長も病死しています。
こうして会見に関わった大名たちが相次いで亡くなってしまい、徳川氏と豊臣氏の間を取り持てる人物が存在しなくなってしまいました。
これが原因となって徳川氏と豊臣氏の軋轢が再び高まっていき、やがて1614年には「大坂の陣」という戦役が勃発し、その翌年に豊臣氏は攻め滅ぼされています。
もしも清正たちが生きていたら、この結末は変わっていたかもしれません。
加藤家の改易
清正の死後、加藤家は3男の忠広が継いでいます。
しかしこの時にまだ11才だったため、藩政は乱れていきます。
支城を任されていた重臣たちには若い忠広の指揮が及ばず、重臣同士の対立が発生するなどして、肥後は混乱していきました。
しばらくは幕府の信任が厚い藤堂高虎が忠広の後見人となることで収まっていましたが、その死後には再び問題が表面化していきます。
そして1632年には、ついに忠広は幕府から統治能力の不足を理由に改易を命じられ、領地を没収された上で出羽(山形県)庄内藩に預けられることになります。
この時には清正の築いた熊本城も、整備が行きどかなくなって荒れ果てていたようです。
こうして肥後の大名としての加藤家は滅亡しました。
後に忠広の子どもは5000石の農地を持つ大庄屋となって存続し、いまでも山形県を中心として、各地に清正の子孫が存在しています。
死後の崇拝
清正は肥後の農地開拓に成功し、生産力を高めて生活を豊かにしたことから、領民からの高い支持を受け、死後に神格化されています。
「清正公(せいしょこ)さん」という呼び名で親しまれ、信仰の対象になりました。
肥後で旅芸人たちが芝居を行う際には、特に役目がなくとも必ず清正役を出演させる習慣があった、というほどに人気がありました。
加藤家の改易の後、肥後は細川忠利が領主となりますが、入国の際に「あなたの領地をお預かりします」と清正の廟所に向かって拝礼した、という逸話が残っています。
清正を敬う姿勢を見せることが、肥後の安定につながるとみなされるほど、死後にも強い影響力を持っていたことがうかがえます。
清正の能力
これまで見てきたとおり、清正は戦場では猛将として活躍し、城塞の建築を得意にしており、軍事に秀でた人物でした。
内政でも大規模な農地開拓を成功させており、重い負担に耐えながら領地を発展させる見事な手腕を見せています。
農作物の投機売買によって資金を確保する財務能力も備えており、これが領地の経営や、熊本城の建築を順調に進ませる原動力になりました。
当時の領主が必要とする能力をすべて備えていた、優れた大名だったと言えます。
若い頃は政治的な面で脇の甘さが目立ちましたが、年を重ねてからは成熟し、家康と秀頼の対面を実現させています。
惜しくも急死してしまいましたが、もう少し長生きをしていたら、政治の面でも、もっと優れた業績を残したかもしれません。