本多忠勝は幼いころから家康に仕え、生涯を通じて忠義を尽くし、数多くの戦場で活躍した武将です。
家康の家臣の中でも特に優れた者を指す「徳川四天王」のひとりに数えられ、天下統一の達成に大いに貢献しています。
また、織田信長や豊臣秀吉といった時の権力者たちからもその能力を賞賛されており、戦国時代を代表する勇将のひとりであったと言えます。
この文章では、そんな忠勝の生涯について書いてみます。
【本多忠勝の肖像画】
松平氏の譜代の家に生まれる
忠勝は1548年に、松平氏に古くから仕える本多氏の一族に誕生しました。
父・本多忠高は松平氏が敵対していた尾張の織田信秀(信長の父)との戦いで活躍した武将です。
しかし1549年に今川義元の腹心・太原雪斎が織田方の安祥城を攻める戦いに参加した際に、矢に射たれて戦死してしまいます。
これは忠勝がまだ2才の時のことで、このために忠勝は叔父の忠真(ただざね)によって養育されることになりました。
桶狭間の戦いで初陣を迎える
忠勝は幼少の頃から徳川家康(当時は松平元康)に仕えており、初めは小姓としてその身辺で働いていました。
そして1560年の「桶狭間の戦い」で初陣を迎え、家康が大将を務めた鷲津砦の攻略戦に参加します。
この時に忠勝は、危うく織田方の武将・山崎多十郎に討ち取られそうになりましたが、側にいた忠真が槍を敵に投げつけ、忠勝の窮地を救っています。
忠勝は後に無双の大将として知られるようになりますが、この頃にはまだ叔父の助けを必要とする状態であったようです。
ちなみに忠真もまた、「槍の名手」と呼ばれるほどの優れた武人でした。
鳥屋根城で初めて首を取る
翌1561年になると、家康は桶狭間の戦いに敗れて衰退し始めた今川氏から独立し、三河で割拠するようになります。
しかしこの時点では今川氏に所属し続ける三河の豪族も多く、家康はそれらの敵と戦っていくことになりました。
忠勝はこの三河統一戦に参加し、そこで武将としての経験を積み上げていきました。
やがて家康が三河の鳥屋根城を攻めた際、忠勝は忠真の隊に所属して参戦しています。
そして忠真が戦場で敵を槍で刺し貫いた上で、忠勝に「首を取って手柄にするがいい」と告げたのですが、忠勝はこれに反発します。
「人の力を借りて武功を立てるようなことはしない」と言い放ち、敵陣に駆け入って自ら首を取って戻ってきました。
この様子を見て、周囲の者たちは忠勝はただものではないと気がつき、高く評価するようになっていきます。
家康が独立を果たす過程で、忠勝も侍としての一人立ちを果たし、以後は多くの武功を立てて家康の躍進に貢献していくことになります。
三河の一向一揆において、家康への忠誠を貫く
その後、家康の三河統一は順調に進行して行ったのですが、やがて松平氏を2つに割る大きな騒動が発生します。
それは三河の一向一揆(浄土真宗の信徒たちによる反乱)でした。
三河はもともと浄土真宗の信徒が多い土地柄で、家康の家臣にも多く含まれています。
彼らが三河の浄土真宗の寺院の扇動によって、家康へ大規模な反乱を起こしたのが、この騒動の始まりでした。
本多正信を初め、本多一族の多くも反乱に与しており、この一向一揆は、家康の生涯の中でも最大級の危機のひとつとして数えられています。
忠勝もまた浄土真宗の信徒の一人だったのですが、家康への忠誠を貫くため、浄土宗に改宗し、反乱を起こした者たちと戦って武功を上げました。
この主君への忠誠を尽くした働きにより、忠勝は家康から厚い信任を受けることになります。
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