本多忠勝 「天下無双」と呼ばれた戦国最強の武将の生涯

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家康に過ぎたるもの

小杉左近は戦いが終わった後、「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」という狂歌を作り、これが世に広く知られることになりました。

「唐の頭」は中国産の珍しい兜のことで、家康が愛用していた品です。

そして「本多平八」とは忠勝の通称「平八郎」から取られており、家康にはもったいないほど優れた武将である、と敵から賞賛を受けたことになります。

主君の撤退のために不利な状況で戦場に踏みとどまり、決死の覚悟で自身の脱出にも成功した忠勝の武勇が讃えられ、武田軍にもその存在が知られるようになりました。

武田軍との戦いで活躍する

その後、忠勝は家康が大敗を喫した「三方ヶ原の戦い」で左翼に配置され、武田軍の最強部隊である山県昌景隊を後退させるなど、劣勢の中で気を吐く活躍を見せています。

しかし全体の戦況は大敗と言えるもので、徳川軍の武将に多くの死者が出ており、叔父の忠真もこの戦いで亡くなってしまいました。

家康にとっては幸いなことに、この戦いの少し後に信玄が病死したため、武田軍は甲斐(山梨県)に撤退しています。

この機を逃さず、徳川軍は三河や遠江で反攻を開始しました。

忠勝はその流れの中で、信玄に奪われていた長篠城の奪還戦や、織田信長が大量の鉄砲と野戦築城によって勝利した「長篠の戦い」でも目立った戦功を上げており、その武名はますます高まっていきました。

家康からは「まことに我が家の良将なり」と賞賛されています。

そして1582年の武田征伐の完了後には、信長からも「花も実も兼ね備えた武将である」として、その家臣たちに紹介されています。

武田軍の壊滅を惜しむ

長篠の戦いで強敵であった武田軍が壊滅した後、忠勝は物憂げな様子を見せていました。

そのことを不思議がった他の武将から理由をたずねられると、「惜しい武将たちを亡くしてしまった。これ以後は戦で血が騒ぐこともないだろう」と返答しています。

忠勝にとっては、武田軍は手強いものの、それだけ自分の武勇のふるいがいのある、好敵手でもあったのでしょう。

蜻蛉切

忠勝の戦場での活躍ぶりは、「蜻蛉(とんぼ)が出ると、蜘蛛(くも)の子散らすなり」と川柳にも詠まれています。

これは忠勝が用いていた蜻蛉切(とんぼきり)という名槍になぞらえたもので、忠勝がこの槍を持って戦場に出ると、たちまち敵が追い散らされていった様子を表しています。

ちなみに、蜻蛉切の異名は、戦場で槍を立てていたところ、その先端にとまったトンボが、何もしていないのに二つに切れてしまった、という逸話に基づいています。

それほどの鋭い切っ先を持った優れた槍であり、忠勝はそれを用いて戦場で多くの武功を立てました。

小牧・長久手の戦いの救援に駆けつける

その後、1582年に織田信長が本能寺の変で横死し、天下人が誰になるのか、その行方は不透明になっていきます。

そのような状況下で、家康は三河・遠江・駿河に加えて甲斐や信濃を制し、五ヶ国を支配する大大名の地位を手に入れました。

そして信長の遺臣同士の闘争に勝利した羽柴秀吉と敵対するようになり、やがて両者が対決する「小牧・長久手の戦い」が尾張で勃発しました。

この時に忠勝は三河の守備についていたのですが、家康が秀吉の大軍の前に苦戦していることを知り、500の兵を率いて戦場に駆けつけました。

秀吉の前に一騎で身をさらす

秀吉も家康も互いに堅牢な陣地を構築し、尾張の戦場ではしばらくにらみ合いが続きました。

この膠着した状況を打破するため、秀吉が三河に向けて別働隊を送り込むと、家康は陣地を出てこの別働隊を急襲し、撃破します。

すると秀吉もまた、家康を討つべく大軍を動かしました。

忠勝はこれに対し、数万の大軍を擁する秀吉の前に、ただ一騎で身をさらし、川で馬に水を飲ませる様子を見せ、秀吉の軍勢を挑発しました。

これを銃撃して討ち取るべきだ、と主張した武将もいましたが、信長の家臣だった時代に忠勝と戦場をともにしたことがある秀吉は、忠勝の勇気と忠義を賞賛し、あえてこれを見逃させています。

秀吉はこの時、忠勝に攻めかかると、少しずつ抵抗されて食い止められ、家康から遠ざけられてしまうことも見抜いていました。

忠勝はこの後も秀吉の軍勢に追従してその進軍を遅滞させる活動を行い、この影響もあって、秀吉の出動は空振りに終わっています。

こうして目の前で並外れた勇気を示したことから、後に秀吉から「東に本多忠勝という天下無双の大将がいる」と賞賛を受けています。

ちなみにこの時に忠勝と並び称されたのが、九州の戦場で活躍していた立花宗茂でした。

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