旗本先手隊の武将となる
家康は一向一揆を鎮め、今川側の勢力を駆逐して三河の統一に成功すると、新たに「旗本先手隊」という部隊を編成します。
旗本先手隊は家康直属の精鋭部隊であり、特に選りすぐった若手の武将たちを起用することで、家康自身の軍事力を強化するための組織でした。
忠勝はこの時19才でしたが、抜擢を受けて54騎を率いる武将に任命されています。
これ以後、忠勝は家康の居城の城下に住むようになり、側近の将として活躍するようになりました。
歴代の旗本先手隊に組み入れられた武将には、榊原康政や井伊直政らもおり、いずれも後に家康の重臣として活躍しています。
旗本先手隊に選ばれるのは、言わば徳川氏におけるエリートコースに入ったことを意味していました。
なお、この頃に家康は松平から徳川に改姓し、三河守の官職を得て、名実ともに戦国大名としての地位を確立しています。
姉川の戦いで一騎討ちを行い、勝機を作る
1570年になると、近江(滋賀県)で「姉川の戦い」という、織田信長・徳川家康の連合軍と、浅井長政・朝倉義景の連合軍による決戦が行われました。
この時に忠勝は朝倉軍の豪傑・真柄直隆(まがら なおたか)と一騎討ちを行って勇名をはせ、他国にもその存在が知られるようになっていきました。
この戦いでは忠勝が朝倉軍に向かってただ一騎で突撃をかけ、これを救おうとした徳川軍の動きが勝利をもたらした、と言われています。
朝倉軍に横撃をかければ打ち崩せる、と見抜いた家康が、榊原康政に別働隊を率いさせてこれを実行させた、という話もありますが、そのきっかけを作ったのが忠勝だった、ということなのかもしれません。
忠勝と榊原康政
榊原康政は忠勝と同じく、徳川四天王に数えられる優れた武将です。
忠勝と同じ年齢だったこともあって二人は仲が良く、戦場で武功を競う間柄でもありました。
忠勝は個人の戦闘力と中小規模の部隊の指揮能力に優れており、康政は大部隊の指揮を得意としていた、と言われています。
偵察中に武田軍と接触する
1572年になると、甲斐(山梨県)の武田信玄が家康の領地になった遠江(静岡県西部)への侵攻を開始し、兵力に劣る徳川軍は不利な状況に追い込まれていきました。
そして武田軍が遠江の要衝である二俣城を攻撃しようとしていると知り、家康は3千の軍を率いて救援に向かいます。
この時に忠勝と内藤信成が先行して偵察を行っていたのですが、予想以上に武田軍の進軍が早く、不意にその先発隊と接触してしまいます。
武田の軍勢は5千ほどで、計画していない接触であったことと、数の不利を受けたために家康は撤退を決断します。
しかし精強な武田軍の動きは素早く、すぐに徳川軍に向かって攻撃をしかけて来ました。
一言坂の戦い
この時に忠勝は本隊と内藤信成隊を逃がすために殿(最後尾の守り)を務め、坂の下という不利な地勢に陣を構えることになります。
この戦いは「一言坂(ひとことざか)の戦い」と呼ばれています。
武田軍を率いるのは信玄の重臣・馬場信春で、坂の上から下に向かって忠勝の陣に切り込み、3段に構えた陣のうち、2段までを突き破って来ました。
さらに、忠勝隊の背後に小杉左近という信玄の近習が率いる部隊が回り込み、銃撃を浴びせかけて来たため、忠勝隊は壊滅の危機に陥ります。
この時に忠勝は決死の覚悟で、坂を下って小杉左近の部隊に突撃をかけました。
忠勝隊の勢いはすさまじく、これを無理に食い止めようとすれば大きな被害が出ると判断した小杉左近は、道を開けて忠勝の通過を見逃しています。
この時に忠勝は馬を止めて小杉左近の名を聞き、感謝の言葉を述べてから去っていきました。
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