後に真田氏も譜代同然の立場になる
なお、この時に井伊直政も家康への口添えを行い、昌幸らの助命を勧めています。
その理由は「昌幸らを許せば、信幸は心から徳川氏のために尽くすようになるでしょう」というものでした。
この直政の言葉通り、父と弟の助命の願いが聞き入れられたことで、信幸は徳川氏に誠実に仕えるようになり、やがて真田氏は譜代同様に扱われるようになっていきます。
忠勝と信幸の良好な関係もまた、それに寄与していたことでしょう。
伊勢・桑名に移封される
関ヶ原での功績により、家康から5万石を追加するとの内示を受けますが、忠勝はこれを固辞しています。
このため、旧領を5万石に削減した上で次男の忠朝が大多喜藩主となり、忠勝は新たに伊勢・桑名10万石の大名となりました。
忠勝は桑名に移動すると、町割りや街道の整備事業を行い、この地が発展するための基礎を作り上げています。
忠勝の死後、本多家は姫路や福島など、繰り返し各地へ転封されますが、江戸時代を通じて存続し、明治維新の後も華族として遇されることになります。
病にかかり、中枢から遠ざかる
関ヶ原の戦いの後は大きな戦いが発生しなくなり、家康は江戸幕府の統治体制を固めるため、政治力に秀でた人材を多く用いるようになっていきました。
このため、忠勝や榊原康政のような、武に秀でた人材は中枢から遠ざけられるようになっていきます。
榊原康政は自ら「老臣が権力を争うのは亡国の兆しである」と述べてこの状況を受け入れましたが、忠勝も戦いがなくなったことを嘆きつつ、世の変化を受け入れていったようです。
やがて1604年に病を患ったこともあり、忠勝は家康に隠居を申し出ますが、慰留されて大名の地位に留まっています。
この時点ではまだ大坂で豊臣秀頼が健在でしたので、武勇に優れた忠勝を桑名に配置したのは、豊臣氏の反抗に備える目的もあり、それゆえに隠居も許可されなかったのだと思われます。
同様の理由で、井伊直政も琵琶湖のほとりにある彦根に配置されています。
戦場では無傷なれど、細工の最中にケガをする
忠勝は生涯で57度も戦場に赴きましたが、一度もかすり傷ひとつ負うことがなかったと言われています。
忠勝は動きやすさを重視して軽装で戦場に出ていましたので、武術に秀でているだけでなく、よほどに戦場での危険を察知することに長けていたようです。
忠勝は偵察能力も優れており、ある時遠江に侵入してきた武田勝頼の軍勢を偵察したことがありました。
そして敵の士気が非常に高いことを察知し、家康に撤退を進言しています。
家康はただちに忠勝の言葉を受け入れて撤退を決断しましたが、後になって、経済的に困窮しつつあった勝頼にとって、これが最後の外征の機会であり、そのために必勝を誓って士気が高かったのだということがわかりました。
忠勝は戦場の気配だけでそれを察知できる能力をもっていたわけで、そのあたりが危険を避け、ケガをするような状況に追い込まれなかったことの理由なのでしょう。
しかし忠勝はある日、持ち物に小刀で自分の名前を掘っていたところ、手を滑らせて指をケガをしてしまいます。
そして「わしもこれで終わりか」と言いました。
その死
忠勝は1607年に眼病を患っており、細工の最中にケガをしたのは、その影響があったのだと思われます。
そして病が重くなると、1609年に嫡男の忠政に家督を譲り、翌1610年に死去しました。
享年は63でした。
生涯を通じて家康に忠義を尽くし続けた
忠勝は単に天下無双と呼ばれた精強な武将であっただけでなく、生涯を通じて家康に忠義を尽くしました。
そして桶狭間の戦いを皮切りに、姉川の戦いや関ヶ原の戦いなど、家康の主要な戦いにすべて参戦し、目立った戦功を立てています。
また、一言坂の戦いや小牧・長久手の戦いで見せたように、家康の身に危険が迫れば、自らの命を惜しまずに家康を守ろうとする行動を見せており、このあたりの勇敢さと献身が、忠勝を凡百の、ただ強いだけの武将たちと隔てている点だと言えます。
信長から「花も実も兼ね備えている」と評されたのも、優れた武術と指揮能力、そしてそれを支える精神力を指してのことだったと思われます。
家康が天下人になれた要因のひとつとして、忠勝のような人物から、忠誠を尽くすにふさわしいと思われていたことが挙げられるでしょう。
忠勝は臨終に際し、次のような言葉を遺しています。
「侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず。主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍という」
実に、この言葉の通りに生きた人だと言えます。