滝川一益 信長の軍団長として活躍した、知勇兼備の名将の生涯について

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滝川一益(かずます)は織田信長に仕え、その重臣として活躍した人物です。

戦闘に強く、調略や外交もこなせる優れた武将で、主に伊勢(三重県)方面の攻略で活躍しました。

やがて大名になり、関東を統括する軍団長に任命されるほどに出世しますが、信長が本能寺の変で死去したことで、その運命が反転します。

関東を北条氏によって追われた後、信長の死後に台頭した羽柴秀吉と戦って敗れ、領地をすべて失ってしまいました。

信長の躍進とともに出世を遂げ、死とともに没落した武将であったと言えます。

この文章では、そんな一益の生涯について書いてみます。

【滝川一益の武者絵】

甲賀の出身だと言われる

一益は前半生がはっきりとしていないのですが、近江(滋賀県)の甲賀で、1525年に誕生したと言われています。

甲賀は忍者で有名な土地ですので、一益も元は忍者だったのではないか、という説がありますが、はっきりとした証拠はありません。

伊勢の国人衆とのつながりが深く、攻略戦で活躍していることから、こちらの出身だという説もあります。

信長の重臣では、羽柴秀吉や明智光秀も前半生が不明なのですが、血筋よりも当人の能力を重視していた信長の方針ゆえに、そうした怪しげなところのある人物が、数多く集まっていたようです。

鉄砲の技術によって仕官する

滝川家は元より、それなりに名のある家柄でした。

信長の家臣の前田家や池田家などに、滝川家から養子に入った人物がおり、尾張(愛知県)では一定の勢力を持っていたものと考えられます。

高名な前田慶次郎は、滝川家から前田家に養子として入った人物ですし、信長の乳兄弟である池田恒興は、滝川家から池田家に婿入りした人物の子どもです。

一益は前半生を浪人として過ごしていましたが、こういった織田家中の血縁のつてをたどり、信長に仕官したものと考えられます。

一益は若い頃に堺に滞在し、最新兵器であった鉄砲の操作に習熟しており、信長の前で百発百中の腕前を披露して、仕官が認められました。

明智光秀にも同様の挿話があり、この時代では鉄砲の扱いに長けていると、それだけで貴重な人材として扱われたようです。

蟹江城を奪取する

信長は1559年に尾張(愛知県西部)を統一した後、さらに勢力を拡大すべく、美濃(岐阜県)への侵攻を開始しました。

この時に一益は、北伊勢は尾張と美濃とも国境を接しているので、この地を抑え、美濃侵攻を妨害されないようにした方がよいのでは、と信長に進言をします。

信長はこの意見を採用し、北伊勢の抑えを一益に任せました。

一益は北伊勢で信長と敵対していた服部友貞に調略をしかけ、「織田の攻勢を防ぐには、新しく城を築く必要がある」と、諜報員に吹き込ませます。

そして服部友貞に資金を出させ、尾張と伊勢の国境付近に蟹江城を築城させました。

その後で一益は、服部友貞を追い出して城を乗っ取り、自身が蟹江城主となります。

こうして一益は敵を騙して城を作らせ、その後でこれを奪い取るという奇術めいた手段で、北伊勢に拠点を確保することに成功しました。

このあたりの流れから、一益が調略に長けていたことがうかがえ、忍者の出身であった、という説が生まれる原因になっていると思われます。

清洲同盟の締結に尽力する

信長はこの時、東に接する三河(愛知県東部)で独立した、松平家康(後の徳川家康)との間にも抗争を抱えていました。

一益は1563年に家康との交渉役を担当し、清洲同盟の締結に成功します。

これによって東から攻められる心配がなくなり、信長は美濃への侵攻がさらにやりやすくなりました。

こうして一益は、東の三河と西の伊勢を安全にする役目を果たし、信長の勢力の伸張に貢献しています。

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