織田信長は1560年、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、一躍天下に名を上げました。
信長の兵力は5千で、義元は2万5千であり、5倍もの差がありました。
この文章では、それにも関わらず、どうして信長が桶狭間で勝利できたのか、について書いてみようと思います。
【桶狭間で勝利した織田信長の肖像】
当時の情勢
今川義元は駿河、遠江(静岡県)、三河、そして尾張(愛知県)の東部をも支配し、合わせて100万石の領地を持つ大大名でした。
しかも東の北条氏と、北の武田氏と同盟を結んでおり、西に向かうにあたって、後顧の憂いがない外交状況を作り出していました。
このため、義元は尾張に侵攻するにあたり、ほぼ全軍である、2万5千の兵力を繰り出しています。
これに対し、信長はまだ尾張の5分の2、17万石程度を領有するだけの、ありふれた地方勢力である過ぎませんでした。
ゆえに、義元の本格的な侵攻を受け、信長は窮地に陥ったのだと言えます。
今川氏の繁栄
今川氏は足利将軍家とも血縁のある一族で、室町時代の初期から駿河の守護大名に任じられていた、名門の武家でした。
著名な人物には、足利義満に仕え、九州征伐を成し遂げた今川了俊がいます。
今川氏は戦国時代になると、守護大名から戦国大名への転身を果たし、武田氏や北条氏、織田氏と争いながら、じわじわと東海筋に勢力を伸ばしていきました。
そして遠江や三河の征服に成功し、広大な領国を築きあげます。
本国である駿河は、それらの国々から吸い上げる富によって繁栄し、京から逃れてきた公家たちが住み着くようになり、文化的にも発展していきました。
駿河には清水や愛宕、北山などの、京と同じ地名がいくつもあるのですが、これは駿府を京になぞらえる動きがあったことを示しています。
義元自身も月代を剃らず、お歯黒をつけて化粧をしていたという記録があり、今川氏は公家と同化しつつあったことをうかがわせます。
【後世に描かれた今川義元の武者姿。武士と公家の顔を使い分けていたともとれる】
柔弱にもなる
一方で、このことが武家としての今川氏をむしばんでもいきました。
裕福になり、日々を茶の湯や連歌など、文化に浸って安楽にすごすようになると、武士としては堕落し、勢力の弱体化が始まります。
やがて義元の時代になると、今川氏の譜代衆は優れた人材を輩出できなくなり、義元はもっぱら、幼い頃からの側近だった、太原雪斎のみを頼るようになります。
徳川家康は後に、「今川氏が衰退したのは、義元が雪斎のみを重用して、他の家臣を枢機に参画させなかったせいだ」と指摘しました。
しかし義元からすると、起用しようにも、周囲にいるのはあてにならない人材ばかりで、雪斎のみに頼らざるを得なかった、というのが実情だったようです。
このように、今川氏は表面的には繁栄を謳歌していたのですが、その内実は、じわじわと腐敗が進行してもいたのでした。
信長の興隆
織田氏は守護大名・斯波氏に仕えていた一族で、戦国時代になると、尾張の実権を掌握して下克上を成し遂げました。
しかし、尾張の領地は一族で分割されており、国としてひとつにまとまって活動する状態にはなっていませんでした。
信長はそんな尾張の統一を志し、一族の者たちを次々と打倒して勢力を拡大していきます。
また、自身と家臣、そして兵士たちを日々鍛え上げ、武装の強化にも余念がなく、精強な軍団を作り上げることに邁進しました。
そして信長は、日常においては質素倹約に励み、軍事費の捻出に心を砕いています。
このあたりは、富と文化を享受し、逸楽に耽ることに慣れた今川氏とは、実に対照的でした。
つまり義元と信長の対決は、老大国と新興勢力のぶつかり合いだったのだと言えます。
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