勝利と帰還
田楽狭間における戦いは、午後4時には集結しました。
ですので、2時間ほどの戦いだったことになります。
本隊の敗残兵を追い散らした信長は、それ以上の追撃は命じず、軍を付近の山麓に集めて義元の首実検を行い、戦果を確認します。
それが終わると、すぐに清洲城に帰還しました。
義元を討ち取ったとはいえ、敵の方がまだ圧倒的な大軍であることに変わりはなく、義元の弔い合戦と称して、織田軍に果敢に攻撃をしかけてくる者がいないとも限りません。
そうなると、今度は激戦によって疲労した織田軍が逆に打ち破られ、せっかくの勝利が水疱に帰してしまうことにもなりかねません。
このため、信長は手早く撤退し、そのような事故が起こらないようにしたのでしょう。
大胆にして繊細、勇敢にして慎重という、信長の複雑な性格が表現された行動なのだと言えます。
信長は翌日になると、義元以外の将兵たちの首実検を行い、戦果の全てを確認しました。
そして義元の首を清洲城の外に晒し、自らの勝利を世間に宣伝しています。
これには多くの人々が驚いたことでしょう。
義元の死を知った今川軍は総崩れとなり、それぞれの部隊がばらばらに領国に帰還する事態になりました。
事実上、この時をもって今川氏の繁栄は終わりを告げ、以後はひたすら衰退していくことになります。
信長はそのような情勢を見定めた上で、抜け目なく鳴海城や沓掛城を奪取し、尾張東部の支配権を奪還しています。
こうして、信長にとって存亡がかかったこの重大な一戦は、たった一日で全てが決着してしまったのでした。
戦いの影響
信長が義元に勝利するという、大番狂わせの結果、信長の名は一躍天下に知られることになりました。
従来、信長は家臣たちから見ても、何を考えているのかわからない謎の人物でしたが、この勝利によって、誰もが信長の実力を認めるようになったのです。
国内においては求心力の高まりを生み、対外的には信長に一目を置かせることになりました。
この時に得た名声が、後に正親町天皇や足利義昭の歓心を呼び込み、信長の飛躍につながっていくことになります。
対照的に、今川氏はこれ以後、まっさかさまに凋落の一途をたどります。
そして桶狭間の戦いから8年後の1568年には、あっけなく滅亡してしまいました。
100万石の大領を持っていた大名家にしては、あまりに急速な衰退だったと言えます。
これについては、義元の後を継いだ氏真には領土を維持する手腕が不足していたことや、駿河の武士や領民の堕落がさらに加速していったことなどが、原因として上げられます。
桶狭間の戦いによって、駿河衆の実力はたいしたことがない、と知れわたってしまったことの影響も大きかったでしょう。
そうなれば、もはや今川氏に従い続ける必要はないと、三河や遠江の武士たちは思うようになり、領国の崩壊が進行していったのです。
元より、義元は属国から搾取することが多く、そのうえ猜疑心が強く、遠江や尾張の武将を粛正することが、しばしばありました。
そのように、恩徳を施すところの少ない為政者でしたので、傾き始めた今川氏に忠誠を尽くす者は少なく、あっさりと勢力が潰えてしまったのだと思われます。
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