桶狭間の戦い 織田信長が5倍の兵力差を覆して今川義元に勝利できたワケ

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鷲津砦の陥落と、義元の進軍

また、同時に行われていた鷲津砦の戦いでは、
朝比奈泰朝が奮戦し、守将の飯尾定宗さだむねらを討ち破り、午前10時頃までには陥落させています。

今川軍は数時間で織田方の砦を二つも攻め落とし、まさに連戦連勝、破竹の勢いでした。

それほどに、三河と遠江の軍勢は強かったようです。

これらの戦いが進行している間に、義元は本営を沓掛城から大高城に変更するべく、移動を開始していました。

そしてその途上で、元康と泰朝からの戦勝報告を受けて大いに喜び、桶狭間の北方にある、田楽でんがく狭間にて休憩を取ることにしました。

田楽狭間はその名から想像できる通り、周囲を丘陵に囲まれた低地でした。

大高と沓掛、そして西の中島にも道が通じており、野戦軍が接近するのに容易な地点でもありました。

しかも周囲に丘陵が多いことから見通しが悪く、それに隠れて密かに近づくことが可能です。

地勢からして、急襲をしかけるには絶好の場所だったのでした。

もしも義元が休憩を入れず、大高城に行軍をし続けていれば、信長に攻撃を受けることもなかったでしょう。

このあたりは、開戦早々に次々と戦勝報告が届いたことで、この戦いは思ったよりも楽に進行しそうだと思い、義元は油断をしたのだと思われます。

もとより名門かつ大国の主である義元は剛腹で、かつ驕慢な性格の持ち主でした。

ですので、信長の軍勢はもはやたいした脅威にならないと判断し、気を抜いてしまったのでしょう。

元康と泰朝の活躍が結果的に、義元に危機をもたらしたのだと言えます。

また、信長の本拠である清洲方面に進出させている部隊からは、信長の本隊は前線には向かってきていないようだ、という観測報告も寄せられていました。

この情報もまた、義元の行軍を遅らせる作用をもたらします。

織田の軍議

今川の大軍の侵攻を受け、危機に陥った織田方は、信長の本拠である清洲城に集まり、軍議を開きました。

今川軍は2万5千、織田軍は5千、そして義元は45才の経験豊かな武将で、信長はまだ27才の若年と、織田方にとっては悪条件が重なっていました。

まともに戦ってもとても勝ち目はなかろうと、信長の家老・林佐渡が家臣たちの意見を代表し、籠城策を具申しました。

しかし信長は断固としてこれを拒絶しています。

信長の父・信秀のぶひでは「いかなる場合でも籠城はするな、敵が来たら境外に出て迎え撃て」という遺訓を信長に伝えていました。

尾張は平地が多く、街道が諸方に通じており、大軍に攻め込まれやすく、守るのが難しい土地柄でした。

このため、父・信秀は常に先手を取って隣国に果敢に攻め込み続けており、この方針は信長にも受け継がれています。

そのような背景があったことから、信長の意志は「積極的に打って出て、死中に活を求める」と定まっていました。

信長はこの席で、「勝負は時の運である」とも言っています。

さしもの信長も、あまりにも状況が悪すぎることから、確固たる勝算は抱きようがなく、運に頼らざるを得なかったのでしょう。

一か八か、父と同じく果敢に攻勢に出て、失敗したら死ぬだけだ、と覚悟を固めていたと思われます。

通報と沈黙

今川軍の総攻撃が始まる前夜、18日の夜には、丸根・鷲津の両砦から警報がもたらされ、清洲城内の緊張はさらに高まりました。

しかし信長は諸将になんら命令をせず、ただ雑談をして夜になるまでを過ごしました。

夜が更けると諸将に帰宅を命じましたが、退出する家老たちは、「運の末には知恵の鏡も曇るとは、まったく今のような状況を指すのだろう」と嘆き、信長を嘲弄した、ということです。

信長が何ら作戦案を示さなかったことで、家臣たちは大きく落胆していたのでした。

信長がここで作戦を明らかにしなかったのは、今さら議論をしても意味がないと思ったのと、今川方に、自分が打って出ようとしているという情報が漏れることを、警戒したのだと考えられます。

ここまで不利になると、いつ今川方に寝返る者が現れても、おかしくない状況になっていました。

奇襲は情報が漏れれば絶対に成功しませんので、信長は防諜に神経をとがらせていたことでしょう。

信長の出陣

翌19日の未明には、丸根・鷲津砦に敵がとりついた、との急報がもたらされます。

この時に信長は敦盛を舞い、「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。ひとたび生を得て、滅せぬもののあるべきか」と謡いました。

人間はいつか必ず死ぬ、ならば、命がけで物事に挑むべきである、というのが信長の人生の方針であり、出陣前にこれを謡うことで、自らの気持ちを奮い立たせたのです。

信長は立ちながら食事を取りつつ、鎧兜を小姓に身につけさせ、主従6騎で清洲城から出陣しました。

信長は途中で馬を輪乗りにして、追いかけてくる士卒を集合させつつ、200の軍勢で熱田神宮に到着します。

そして戦勝を祈願しますが、この時に信長は馬上でゆったりと構え、鼻歌を歌うなどしており、熱田の者たちには、とてもこれから戦争をしようとしている人の姿には見えなかった、という逸話が残されています。

信長の腹はすっかりと固まっており、ただやるべきことをやるだけだ、という落ち着いた気持ちになっていたようです。

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