桶狭間の戦い 織田信長が5倍の兵力差を覆して今川義元に勝利できたワケ

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義元の状況

こうして信長が義元を倒すために突き進んでいる間に、義元は田楽狭間に腰を落ち着けていました。

丸根、鷲津の勝報に続いて、鳴海方面でも佐々政次らを討ち取り、その首が届けられていましたので、それを実検し、「我が矛先の前には、天魔鬼神も敵ではあるまい」と勝ち誇っていました。

この時に義元は、赤地に錦の直垂を着て、胸白の具足をまとい、腰には大左文字という名刀を帯びており、美々しい武者姿となっていました。

そして芝の上に敷皮をしかせ、謡をうたわせて心地よく過ごしています。

やがては戦勝を祝うため、近隣の僧や神官が訪れ、酒肴を献上し、義元は上機嫌で昼食を取りました。

義元の周辺だけでも5千の兵がおり、織田軍の総勢と同数以上だったのですから、多少は油断をしても、大きな危険はないはずでした。

一方で、このあたりの様子を見るに、義元は信長がどのような武将なのか、十分には研究していなかったことがわかります。

信長が数倍の大軍に攻め込まれても、臆せずに最前線に自ら出張ってくるほどの勇敢な武将だと知っていたら、もう少し警戒心を抱いていたはずだからです。

名門の出身で、圧倒的な大軍を擁していたことから、格下の信長に対しては、侮る気持ちがあったのではないかと思われます。

「敵を知り己を知れば、百戦危うからず」と言いますが、この時の義元は、己のことはよく知っていたでしょうが、敵のことはよく知っていなかったのです。

雨と風

この日は例年になく気温の高い日で、正午ごろになると、西北から黒雲が広がり、田楽狭間の周辺は強い風と雨にみまわれました。

これによって今川軍の士気は下がり、体が濡れて風に晒されたことで、体力が低下していったと思われます。

信長は生涯を通じて幸運に恵まれた人物でしたが、この時もそれは同じでした。

信長の軍勢は風雨にまぎれ、察知されることなく今川軍の側にまで接近します。

そして山裾にひそみ、雨がやむのを待ちました。

攻撃開始

やがて午後二時になると、信長は空が晴れたのを見て槍を取り、大きな声で「すは、かかれ、かかれ!」と麾下の軍勢に突撃を命じました。

織田軍は地に黒煙を立てるほどの勢いで今川軍にぶつかっていきます。

すると今川軍は信長が思ったよりももろく、水にまくられたが如く、後ろにむかって崩れ立った、と記録されています。

織田軍の激しい攻撃を受け、あっという間に切り崩されていく今川軍の様子が、目に浮かぶようです。

弓兵や槍兵、鉄砲兵、旗持ち、いずれも体勢を整えることもなく、混乱して四分五裂となり、従者は義元の豪華な塗輿(人が担ぐ乗り物)を捨て、我先にと逃げ出してしまいました。

義元の周囲には300騎ほどの護衛だけが残り、残りの4千以上の兵士たちは奇襲に驚き、あるいは謀反が起きたのかと動揺し、まともに指揮ができない状態になります。

こうなってはもはや数の差には意味がなく、織田軍は一方的に今川軍を撃破していきました。

このあたりの様子から、義元直属の駿河衆が、弱体化していたことがうかがえます。

織田軍は撤退しようとする義元の護衛隊に波状攻撃をしかけ、その数を討ち減らしていきました。

そしてついに織田軍の服部小平太こへいたが、義元その人に接近して攻撃をしかけます。

小平太が槍を突きかけると、義元は太刀で槍の柄を切り落とし、小平太の膝を切り払いました。

しかし抵抗もそこまでで、続いて毛利新介が義元に打ってかかると、義元はあえなく引き倒され、首を取られてしまいました。

いかに2万5千の軍勢を率いていようとも、戦場で孤立してしまえば、一個の中年男性であるに過ぎず、義元は屈強な織田軍の兵に襲われ、あえなく戦死したのでした。

この時に周囲に展開していた井伊直盛なおもりら、遠江衆1千が救援にかけつけましたが、勢いに乗る織田軍に撃破され、その大半が戦死しています。

こうして総大将が討たれたことで、今川軍の本隊は総崩れとなり、織田軍は追撃をかけ、2千5百もの敵兵を討ち取りました。

いかに奇襲をかけられ、疲労と風雨に晒されて弱っていたとは言え、5千の兵が2千の兵にいいようにあしらわれたのは、情けないありさまだったと言えます。

ここまで一方的な展開になったのは、義元の本隊が度重なる勝利によって油断し、気を緩めていたから、というのが大きいでしょう。

これとは逆に、織田軍はここで勝利しなければ後がありませんので、それだけに必死になっており、戦意が非常に高まっていたものと思われます。

このために織田軍の攻撃は迅速かつ苛烈なものとなり、2,5倍もの数の差をものともせず、圧倒的な勝利を得たのだと考えられます。

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