戦国時代には様々な個性をもった武将たちが存在していますが、岡左内もまた、際だった特徴を持った人物でした。
どのような個性があったのかというと、左内は武将としては珍しく、蓄財や利殖に励むなど、大変にお金を好んでいました。
それでいて守銭奴ではなく、必要な時にはお金を惜しまない、という性格の持ち主でもあり、奇特な人だったのだと言えます。
この文章では、そんな左内の生涯と逸話を紹介します。
若狭に生まれる
何年の生まれかはっきりとしていないのですが、岡左内は若狭(福井県西部)の出身だったと言われています。
左内は通称で、正式な姓名は岡野定俊だとも、岡野定政だとも言われており、こちらもいまひとつはっきりしていません。
このため、ここでは「左内」で統一して書いていきます。
故郷の若狭には、日本海経由で京都へ物資を輸送するための拠点となる敦賀港があり、それゆえに商業的に発達していた地域でした。
外国人の往来も盛んで、国際的な貿易港として使用されてきた歴史もあります。
このことから、左内もまた武士でありながら、金銭への関心が強い人物として育っていったのだと思われます。
武士らしくないふるまいを嘲られるも、意に介さず
やがて左内は蒲生氏郷という武将に仕えるようになり、50石という小身の武士になります。
これはせいぜい自分ひとりの武装を整え、供をひとり連れられる、という程度の低い身分でした。
この時に左内は、暇をみつけては草履を作り、これを売却して小銭を稼ぎ、無駄遣いをせずにため込んでいきます。
それを知った同僚たちからは、「金儲けに励むなど、武士らしからぬ卑しき男よ」などと陰口をたたかれますが、左内は一向に気にしませんでした。
当時の価値観では、武士は戦場での槍働きに専心すればよく、お金のことに気を配るのは、らしくないふるまいだと思われていたのでした。
やがて1590年になると、豊臣秀吉によって関東の北条征伐が実施されます。そして秀吉の配下である蒲生氏郷はこの戦いに従軍しました。
この時に左内は、蓄えから黄金7枚を取り出して良質な馬を買い求め、武器や防具も高価な物を調達し、戦闘の準備を整えました。
そして馬揃え(閲兵式)が行われた際には、家中で最も立派な武装を整えており、これによって主君・氏郷に心がけのよさを称賛されます。
そして300石に加増され、出世の糸口をつかみました。
左内はお金を稼ぐこと自体を目的にしていたわけではなく、戦いの際によい馬や武具を整え、活躍するためにお金を稼いでいたのです。
このため、いざとなれば惜しまずにお金を注ぎ込み、軽格の武士なのに、家中で最もよい武具を揃えられるまでになっていたのでした。
活躍を続け、やがて1万石を与えられる
左内は蓄財が得意だっただけでなく、武勇にも秀でていました。このため、戦場に出るたびに目立った功績を立て、順調に出世していきます。
記録上では、氏郷が伊勢を攻めた時に、畑重正という武将を討ち取ったとされています。
生没年も名前もきちんと伝わっていないくらいですので、記録に残っていない手柄も数多くあったでしょう。
左内が活躍できたのは、豊富な資金によって、武装を十分に整えていたことも、その要因になっていたと考えられます。
この結果として、やがて氏郷が会津(福島県)92万石の領主になった際に、1万石を与えられ、ひとかどの武将としての身分を獲得しました。
これは250人程度を指揮する部隊長の地位であり、わずか50石から、蒲生家の重臣のひとりにまでのし上がったことになります。
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