大判を部屋に敷き詰めて楽しむ
こうして功成り名を遂げた左内でしたが、その頃には蓄財の規模もさらに大きくなっており、節約と利殖のかいがあって、大判や銅銭を大量に所有するようになっていました。

【大判の画像(これは江戸後期のもので、25両の価値がありました)】
左内は月末になると、それを取り出して部屋に敷き詰め、金貨の輝きを眺めて悦に入る、という趣味を持っていました。
そして貨幣の間で寝起きをし、自分が多くの財産を所持していることを確認して楽しんでいた、という話が残っています。
こう聞くと、いかにも成金趣味の守銭奴といった印象を受けますが、左内はそういう人物ではありませんでした。
ある年のこと、お金を部屋に敷いて楽しんでいた翌朝、左内に急報がもたらされます。
それは友人が同僚ともめ事を起こし、私闘が発生しかけている、というものでした。
これを聞いた左内は刀を腰にさし、足の速い名馬にまたがって、すぐに友人のところに駆けつけます。
そして争っていた両者の調停に努め、3日をかけ、ようやくこれを鎮めることに成功しました。
慌てていたので、その間、大判は部屋に出しっぱなしになっており、盗まれる可能性もありました。
しかし左内はそのことをすっかりと忘れ、友人を助けるために奔走していたのです。
このことから、左内は決して、お金こそが一番大事だとは思っていなかったことがうかがえます。
左内の心得
左内はお金を蓄えることは大好きでも、執着はしない、という珍しい人柄の持ち主でした。
左内の精神の根底をうかがわせる、次のような逸話があります。
左内の家臣の中に、馬の世話係をしている身分の低い男がいました。
この家臣は左内を見習って倹約に励み、ついに黄金1枚を蓄えるまでになります。
これを聞いた左内はその家臣を呼び出し、「奇特な心がけをしているな」と褒め称え、黄金10枚を褒美として与えました。
そして「武士もまた金がなくては、戦いに臨んだ際に、功績を立てることができない。お前は低い身分でありながら、蓄財に励むとは、殊勝な心がけである。ゆえにこれを賞するのだ」と告げます。
この言葉から、左内は武士の心得として、戦場で活躍するための資金を稼ぐこともまた必要な行いだと考えており、それゆえに大金を所有するようになり、かつ惜しむことがなかったのだ、ということがわかります。
上杉景勝に仕え、資金を提供する
その後、蒲生氏郷が病死すると、蒲生家では家臣同士がもめごとを起こし、お家騒動が発生しました。
そしてこの混乱を氏郷の後継者・秀行は収拾することができませんでした。
その結果、92万石もの大領を支配するには値しないとして、秀吉から18万石に減封される処分を受けます。
この時に左内は、家臣たちを解雇せざるを得ない主家の窮状を察し、身を引き、新たに会津の領主となった上杉景勝に仕官しました。
そして4200石の知行を得て、再び武将として働くことになります。
やがて1600年になると、徳川家康による上杉討伐が実施されることになりました。
これは天下統一を目指す家康が、各地の大大名を自分の支配下におくべく、策動を始めていたことに起因しています。
この時に左内は、軍費の調達に悩んでいる主君・景勝に対して1万貫(およそ10億円)という大金を献金し、さらに諸将にも資金を貸し与えるなどして、上杉氏を支える行動を取っています。
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