真田昌幸は知略に優れた戦国大名として知られていますが、元々は武田信玄に仕えていた武将でした。
その時代にも鮮やかな策によって、北条氏の軍勢を討ち破る功績を立てたことがあります。
この文章ではその戦いの際の、昌幸の活躍ぶりを紹介していこうと思います。
(なお、この頃の昌幸は武藤喜兵衛という姓名でしたが、わかりにくくなりますので、昌幸の名で書いていきます。)
薩埵(さった)峠の戦い
1569年に、武田軍は駿河(静岡県)の薩埵峠で北条軍と対峙していました。
信玄はこの前年に駿河に攻め込み、領主の今川氏真を追い出しました。
しかしその結果として、今川氏に味方する北条氏の介入を招くことになったのです。
薩埵峠は駿河と甲斐(山梨県)を結ぶ交通の要所であり、武田軍はここに陣取って北条の進軍を防ごうとしました。

そして先鋒を山県昌景という猛将が務めるのですが、4万5千もの大軍を動員した北条氏に苦戦し、薩埵峠を奪われてしまいます。
この結果、北条氏は軍勢を前に進め、近くにある倉沢山をも占拠しました。
この事態を受け、信玄は「北条から峠を取り戻す策を考えよ」と、まだ22才の若者だった昌幸に命じます。
昌幸はこの頃、信玄の近習として仕えており、既にその才能を認められていました。
昌幸は信玄の命を受け、28騎の手勢を引き連れて前線に向かい、敵陣の様子を確かめます。すると何か着想を得たらしく、ふむふむと何度かうなずいてから陣営に帰還しました。
兄を呼ぶ
昌幸には真田信綱という兄がいましたが、こちらは武田軍の先鋒を何度も任されている、武勇に優れた人物でした。
昌幸は信綱のところに使者を送り、「北条軍を撃退する作戦を実施するので、自分の陣まで来てください」と要請します。
すると信綱は、真田の精鋭800人を率いて昌幸の元を訪れます。しかし、そこには酒宴の用意がされていたので、実直な信綱はいぶかしみました。
「お前はいったいどんな計略を用いて、北条を討ち破ろうと考えているのだ? 大敵を前にしながらのんきに酒宴を開くなど、まったく理解できぬぞ」と昌幸を問い詰めます。
すると昌幸は笑ってみせ、「計略は秘密にしてこそ効果があるのです。なので今は兄上にも言いません。まずは気をしずめて酒を飲んでください」と告げました。
信綱は納得がいかなかったものの、弟が計略に優れているのは知っていましたので、渋々とこれを受け入れました。
兵士たちに酒をふるまう
そうして酒宴が始まってしばらくすると、昌幸は家臣を呼び、「そなたは近隣の町や村をめぐり、酒をありったけ買い求めてくるがよい。さあ、早く早く」とせかします。
するとその家臣は急いで諸方を駆け回り、たくさんの酒樽を買い集めて帰還しました。
昌幸は陣中に酒樽を並べると、鏡(上ぶた)を開かせ、柄杓を添えて兵士たちを集めます。
そして「今日は大変に冷え込んでいるから、みな困っていたであろう。さあ、これを飲んで体を温めるがよい」と言って酒をふるまいました。
この戦いが始まったのは2月でしたので、気温がかなり冷え込んでいました。このために野営をするのは厳しく、兵士たちは日々、寒さに苦しめられていたのです。
昌幸は味噌汁もたくさん作らせており、酒と合わせてこれを飲むことで、兵士たちは体が温まり、寒さによって失っていた元気を取り戻していきます。
ちなみに味噌汁にはアルコールを分解する力があり、酒の酔いを抑える効果があります。
昌幸は両方を提供することで、兵士たちが酔っぱらい過ぎないようにする措置もとっていたのです。
やがて兵士たちは「大将から酒を飲ませてもらって寒さをしのげるとは、何ともうれしきことよ」と喜び、気をよくして舞いを踊り、謡い出す者まで現れ、すっかりとにぎやかになっていきました。
この時代はまだ、酒は高価で頻繁に飲めるものではありませんでしたので、そのうれしさはひとしおだったと思われます。
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