前田利長 過ちを責めず、長所を見て人を用いる

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前田利長としながは、加賀百万石の領国を築いた利家の嫡男(ちゃくなん)で、父に劣らず武勇に優れた人物でした。

その才能を織田信長からも愛されており、信長の四女・永姫(えいひめ)を正室として迎えています。

主だったところでは、豊臣秀吉による九州征伐や小田原征伐に参加し、各地で武功を立てました。

そして戦いに強いだけでなく、人の情を理解でき、配慮できる性格の持ち主で、それゆえに家臣たちからの人望を得ていました。

この文章では、そんな利長の、人材登用に関する逸話を紹介したいと思います。

前田利長

【前田利長の肖像画】

豊臣秀次の自害

豊臣秀吉は天下人になった後、実子がいなかったことから、甥の秀次を後継者に指名し、関白の地位を引き継がせていました。

しかし、その直後に実子の秀頼が生まれたことで、時間がたつにつれ、秀吉と秀次の関係が悪化していきます。

秀吉は父親の情として、できるなら養子の秀次よりも、実子の秀頼を後継者にしたいと考えるようになったのです。

その上、秀吉が全力を投じて実施していた朝鮮半島への遠征に、秀次は反対していました。それもあって秀吉は、秀次を疎ましく思うようになっていきます。

その結果、ついに1595年になると、秀吉は秀次に謀反の嫌いをかけ、自害させてしまいました。

富田高定(たかさだ)は殉死を決意する

この事態を受け、秀次の家臣・富田高定は、恩を受けた秀次の後を追い、殉死(じゅんし)することを決意しました。

そして「京都の北野にて自害する」と宣言すると、その最期を見届けようとして、多くの見物人が集まります。

高定は白装束を着て、切腹の準備を終えて人前に姿を現すと、敷物をしいて場を定め「さあ、ここで見事、自害を果たしてくれよう」と覚悟を固めました。

しかし、その話を聞いた友人や知人たちも集まって来たために、高定は一人一人と別れの盃を交わすことになります。

そうして何杯も酒を飲み続けるうちに、もともと酒に強くない高定はすっかりと酔っぱらい、前後不覚となって、いびきをかいて眠り始めてしまいました。

その様子を見た見物人たちは、手を打ってはやし立て、「殉死すると大言壮語しておきながら、酒に飲まれて眠りこけるとは、なんとも情けなき侍かな」と笑いながら高定を罵りました。

しかも、その場に秀吉が遣わした早馬が駆けつけてきて、「秀次のために殉死するとの義、もってのほかである。もし押して殉死をするのであれば、一族や兄弟までも罪に問われることになるぞ!」と高定を脅しつけて来ます。

これを聞いて酔いがさめた高定は、自分はともかく、一族までもが処罰されてはかなわぬと思い、殉死をやめよとの命令を謹んで受け入れます。

そしてその場を去り、どこへともなく逃げて行きました。

見物の者たちもまた、「まったく、とんだ臆病者もあったことよ」と高定を(あざけ)ると、その場から去り、いつもの日常に戻っていきました。

利長が高定を召し抱える

その後、高定は京の西山のあたりに隠棲し、ひっそりと暮らしていました。

殉死を遂げられなかったことで世間への面目を失い、もはや武士として生きるのは困難になってしまったのです。

しかしそんな高定に対し、利長は1万石という好待遇で召し抱えようと、勧誘の使者を送りました。
(1万石は200〜300程度の兵を率いる将校の身分です。)

高定は北野での失態を恥じており、「ありがたいお話ですが、世間の物笑いとなってしまった以上、お受けするわけには参りません」と答えて断ります。

利長はあきらめず、何度も使者を送って説得しようとしました。そして「もし1万石では不足だと言うのであれば、望みのままに領地を与えよう」とまで告げさせますが、それでも高定は受け入れませんでした。

このため、利長は自ら西山に足を運び、「是非ともそなたを召し抱えたい」と直に伝えると、ついに高定は折れ、前田家に仕官することになりました。

【次のページに続く▼】