日本に鉄砲が伝来したのは、1543年のことでした。
当時の日本は戦国時代のまっただなかで、強力な兵器は各地の大名たちが、喉から手が出るほどに欲しているものでした。
それゆえに、鉄砲はまたたくまに日本中に広まっていき、やがては数千挺がひとつの戦場で用いられるほどになります。
であれば、鉄砲の伝来は必然であったようにも思われますが、実のところ、その始まりは偶然から発生したものでした。
この文章では、鉄砲伝来の過程と、その後の普及の状況について書いてみます。
【鉄砲足軽を描いた絵】
種子島へのポルトガル船の漂着
15〜16世紀ごろにかけて、ポルトガルは国策として、盛んに世界各地への航路の開拓を行っていました。
ポルトガルの艦隊はアフリカを経由してインドに向かい、やがてはアジアにも到達し、ゴアやマラッカといった交易の拠点を得ています。
そして1518年には中国(当時の国号は明)にも到達しており、日本にもやって来るのは時間の問題だったのだと言えます。
しかし不思議なことに、中国までたどり着いてから、ポルトガル人が日本にやって来るまでには、25年もの歳月を要しています。
あるいは、この頃の日中の沿岸には「倭寇」と呼ばれた海賊たちが跋扈していましたので、日本にはなるべく近づかない方がよい、という認識が広まっていたのかも知れません。
日本にはじめてやって来たポルトガル人は、三人の交易商人たちでした。
そのうちの一人は名をピントといい、「東洋紀行」という自伝を記していることから、その名が残っています。
ピントたちは交易品を船に積載してシャムを出発し、中国の寧波に向かっていました。
しかしその途上で暴風雨に襲われ、23日間に渡って洋上を漂うことになります。
そして漂流の果てに、海上から島影を発見し、そこに船を寄せて九死に一生を得ました。
この島こそが種子島であり、こうしてはじめて日本人とポルトガル人が、接触を持つことになったのです。
これは1543年9月23日のことだったと言われています。
なお、この年は、後に江戸幕府を開く徳川家康が誕生した年でもあります。
鉄砲を盛んに活用することになる織田信長はこの時、数え年で10才でした。
彼らの幼年期に鉄砲が伝来し、それによって戦国時代が統一に向かって進み始めたのは、決して偶然ではありません。
種子島とは
種子島は、現在の鹿児島県東部、当時は大隅国と呼ばれた地域に属する島です。
現代では、種子島宇宙センターがあることで知られています。
当時の領主は種子島時尭で、まだ16才の若者でした。
ポルトガル船は初め、種子島の西村という地点に漂着します。
いきなり大きな船が姿を現し、しかも乗組員たちは言葉が通じず、見たこともない髪や肌の色をしていましたので、島民たちは相当に困惑したものと思われます。
しかし幸いにして、船には中国人も乗りこんでいました。
中国での商取引の必要上から、ポルトガル語と中国語がわかる通訳が乗っていたようです。
それに気がついた西村の地頭は、杖を用いて砂上に漢字を書き、「何者か?」と問いました。
そこで中国人もまた砂に文字を書き、「彼らは遠方からやって来た商人で、島民に危害を加えるようなことはないから安心してほしい」と伝えました。
日本と中国の間で漢字文化が共有されていたことが、この接触を成功に導いたのだと言えます。
この話が領主の時尭に伝わると、彼はポルトガル人たちを屋敷に招いて面会をします。
そこで商人たちのうちのひとりが、鉄砲を時尭に披露しました。
そして時尭の前で試し撃ちをしてみせると、時尭は直ちにその価値を理解したようで、二挺の鉄砲を二千両(現代の価値で数億円)という大金で買い取ることを決断します。
南海の孤島の領主であっても、戦国の世の人であるだけに、時尭は鉄砲の持つ革新性をすぐに理解できたようです。
この時をもって、日本の戦争の形態が大きく塗り替えられることになり、時尭は歴史にその名を刻むことになりました。
時尭は単に鉄砲を買い取っただけでなく、操作のしかたや、火薬を調合するための方法を家臣に習わせています。
二千両を支払ったのは、そのあたりの知識も教わるためだったのでしょう。
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