上杉謙信(長尾景虎) 軍神と呼ばれ、信義に生きた武人の生涯について

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上杉謙信は毎年のように各地に出兵し、その生涯の多くを戦場で過ごした生粋の武人です。

後世から「軍神」と呼ばれるほど優れた武将でしたが、その行動原理は他の戦国武将たちと異なっており、際立った個性の持ち主でもありました。

領土欲が乏しく、信義に厚く、人を裏切ることのない誠実な人柄の持ち主でした。

この文章では、上杉謙信はどのような人物だったのかについて、その事跡を追いながら、詳しく書いてみようと思います。

(なお、謙信は生涯に何度も名を変えていますが、表記を頻繁に変えるとわかりにくくなるので、この文章では「謙信」で通して書いていきます。)

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【上杉謙信の肖像画】

長尾為景の4男として生まれる

謙信は1530年に越後守護代・長尾為景の4男として生まれました。

謙信の生まれた長尾氏は、越後守護の上杉氏に仕える立場の家柄です。

守護は室町幕府から任じられた、各地を治める地方長官の役職です。

しかし、長尾為景は自身が越後の支配者となることを目指し、主君の上杉氏にも堂々と戦いを挑んでいます。

下の立場から上の地位を狙っていく、いわゆる下克上の気質を備えた人物でした。

長尾為景は主君を傀儡化するなど、多くの謀略と戦いを重ねて越後制覇を進めていきます。

しかし、何度も反乱を起こされて国内の混乱を招くなどしており、結果的には越後の情勢をひどく不安定なものにしてしまいました。

為景は陰謀に長け、戦いには強いものの、越後一国を束ねる統率力には欠けていたようです。

謙信はそんな父の姿を見て育ちましたが、気質が合わなかったようであり、父からは疎んじられていました。

後に謙信が見せるその篤実な人柄からして、仲違いをしたのは当然のことだったかもしれません。

親の姿を見て、子はその正反対の性格に育つことはよくありますが、謙信の場合もそれに当てはまっていたようです。

林泉寺に預けられる

謙信は6才の時に、春日山城下にある林泉寺に預けられました。

父・為景は謙信を嫌っており、身の回りから遠ざけるための措置だったようです。

謙信はこの時期に住職の天室光育から教育を受け、仏教や一般教養、そして兵学を学んでいきます。

寺で兵学を学ぶというのも奇妙な印象を受けますが、この当時の寺は教育機関でもあり、多様な学問を教える大学のような存在でもあったのです。

謙信は兵学に強く関心を示し、座学だけでなく、城の模型を使った戦争ごっこにのめり込み、他の修行をおろそかにするほどでした。

模型の中で兵士に見立てた駒を動かしたり、兵器の模型を配置して作戦を考える遊びに熱中していたようです。

後に謙信が見せる戦術的な才能の下地は、この時期に養われていったのでしょう。

しかし、これは寺の修行者としてはふさわしいふるまいではありません。

あまりに兵学だけに熱中していたため、「この子を僧侶として育てていくのは無理です」と天室光育に言われ、実家に戻されてしまいました。

謙信は後に信仰に対しても強い関心を示していますので、もしも兵学への興味が薄ければ、一生を僧侶として過ごしていた可能性があったかもしれません。

その清廉な性格からして、宗教界への適性も高かったと思われます。

しかし、謙信の中に宿る大きな軍事の才能が、彼を戦いが渦巻く世界へと導いて行きます。

【次のページに続く▼】