信玄の死と、謙信への高い評価
1573年になると、西進して三河の徳川家康を追い詰めていた武田信玄が、陣中で病没します。
これにより、謙信は長年の宿敵からようやく解放されることになりました。
武田信玄の後は四男の武田勝頼が継ぎ、武田氏の勢力はこれで弱まると見られていました。
この時に武田領への侵攻を家臣が進言しますが、謙信は「勝頼を相手にそのようなことをしても大人げない」と言ってこれを退けています。
一方で信玄は、その死にあたって、勝頼に謙信を頼るように言い残しています。
北条氏康と同じく、謙信の義理堅い性格を信玄も高く評価しており、いささか頼りないところのある勝頼には、謙信と同盟を結んでその助力を得るようにと促したようです。
別のところで、信玄は謙信を「日本無双の名大将(日本では並ぶものがいないほど優れた軍の指揮官)」だと評してもおり、真正面から戦っては、自分であっても容易に勝てる相手ではない、と認識していたようです。
このため、謀略による謙信への妨害や足止めに徹したのでしょうが、そうと見切って戦術を徹底し、勢力の拡大に成功した信玄も、やはり当代一流の人物であったと言えるかと思います。
謙信からすれば腹立たしく、迷惑なことでしたでしょうけれども。
足利義昭から足利幕府の再興を依頼される
武田信玄の死によって敵対勢力が減少した機をとらえ、織田信長は京都から将軍・足利義昭を追放しました。
これは、足利義昭が信玄に上洛を促し、不仲となった織田信長を駆逐するようにと依頼していたからです。
信長は義昭を追放すると、その直後に浅井長政や朝倉義景といった敵対者たちを攻め滅ぼし、畿内に織田政権を誕生させるための動きを加速させていきます。
京都には朝廷と幕府が置かれており、当時の政治の中心地でしたので、ここから将軍が追放されたことで、足利幕府は滅亡し、室町時代は終わりを告げました。
謙信は足利幕府の存在を重視していましたので、義昭の依頼を受け、京都に軍を率いて上洛することを目指すようになっていきます。
織田信長とはすぐには手切れになりませんでしたが、それも時間の問題でした。
信玄の上洛は、自身の勢力を拡大させつつ、織田信長の勢力の伸張を抑えたい、というのが主目的で、謙信とは意識が違っていたでしょう。
しかし、奇しくも謙信は信玄の後を引き継ぐようにして、信長を打倒して上洛する、という同じ戦略目的を持つことになりました。
越中の制圧
その後も関東の北条氏の動きを牽制しつつ、越中に軍を入れてその完全制圧を図ります。
そして1576年には、長年戦い続けた一向一揆の指導者である本願寺との和睦が模索されるようになり、これによって一揆に悩まされることが少なくなっていきました。
一向一揆は農村部にその勢力の根源を置く民兵組織であったため、通常の軍よりもはるかに数が多く、そしてしぶとく抵抗をしてきました。
そのしがらみがなくなったことで、謙信は北陸での活動が容易になっていきます。
この情勢の変化は、本願寺が大坂や越前で織田信長の攻勢を受け、苦境に立たされたことから、謙信との融和を図るよう、方針を転換したことによります。
足利義昭から重ねて信長討伐を求められたこともあって、謙信は上洛への動きを加速させていきます。
この年のうちに謙信は越中の各拠点を攻め落とし、そして長く抵抗を続けた越中守護代・椎名康胤を討ち取り、ようやく越中を完全に支配下に置くことに成功しました。
そしてその次に、能登を自勢力に引き込むため、守護大名の畠山氏に働きかけを行います。
能登半島は上洛にあたって上杉軍の後背地となるため、謙信はこの地を是非とも抑えておく必要がありました。
とは言え自身の領土を拡張することが目的ではありませんでしたので、平和的な解決を試みます。
【次のページに続く▼】