北条氏康や武田信玄と敵対する
謙信が越後統一を成し遂げた翌年、関東管領の上杉憲政が、北条氏康に上野(群馬)の領地を奪われ、謙信を頼って越後に逃亡してきます。
関東管領は室町幕府の役職で、鎌倉公方を補佐して関東地方の政務を行うのがその任務でした。
謙信は上杉憲政を受け入れて支援を約束し、軍勢を関東に派兵します。
そして上野の平井城を北条氏康から奪還し、憲政の領地を取り戻しました。
さらに翌年になると、北信濃(長野)の豪族・村上義清が武田信玄に領地を奪われそうになり、こちらも謙信を頼って越後を訪れます。
この頃にはすでに、謙信は助けを求めれば援助してくれる人物だ、という評判が立っていたようです。
謙信は村上義清に軍勢を貸し与えて北信濃に送り出し、自身も出陣します。
そして武田軍を八幡の戦いで破り、村上義清の領地を取り戻しました。
このように、謙信は上杉憲政や村上義清に頼られたことで、北条氏康や武田信玄と対決することになりました。
謙信の戦いはすべて、人に求められて支援をし、その結果敵を作っていく、という形で推移していきます。
第一次川中島の戦い
武田信玄は謙信に北信濃を取り戻されると、大軍を率いて逆襲し、村上義清の居城・葛尾城を攻め落とします。
村上義清は再び越後に逃亡しますが、これを受け、謙信は本腰を入れて武田信玄を討伐することを決意します。
そして北信濃に入ると武田軍の先鋒を撃破し、武田側の拠点をまたたく間に攻め落としていきます。
武田信玄も北信濃に進軍してきますが、謙信の勢いを避けて籠城し、正面きっての決戦は行いませんでした。
武田信玄は謙信の能力を強く警戒しており、まともに戦って簡単に勝てる相手ではない、と認識していたようです。
間もなく上洛することが決まっていた謙信は長く滞陣できず、やむなく越後に撤退しています。
こうして後に宿敵となる両者の初対決は、はっきりとした決着がつかないままに終わりました。
この戦役は戦場となった地域の名を取り「第一次川中島の戦い」と呼ばれています。
この後も同地における戦いは、長く続いていきます。
上洛して受戒する
1553年には初めて京都に上洛し、後奈良天皇と将軍・足利義輝に拝謁しました。
天皇からは御剣と天盃を授けられ、「敵を討伐せよ」との勅命を受けています。
この当時の朝廷にも将軍家にも実力はありませんでしたが、謙信は権威は尊ぶべきものであり、それによって世の秩序が形成されるべきだ、という考えを持っていたようです。
そのため、これをおろそかにすることはありませんでした。
この考え方は、謙信の立場が守護代という室町幕府の制度によって成り立っていたことと無縁ではないでしょう。
そして拝謁が終わると禅宗の一派・臨済宗の大徳寺に参禅し、「宗心」という戒名を授けられています。
謙信は宗教に対しても真剣な気持ちをもって望んでおり、宗教界の支援を受けようといった、功利的な考えで接近していたわけではないようです。
これには信仰心の厚かった母・虎御前の影響が強かったとも言われています。
謙信は初め禅宗を学び、ついで密教の真言宗に傾倒していきました。
そして仏教の四天王の一尊で、武神・守護神として崇められる毘沙門天を熱心に信仰し、自身の旗印にも「毘」の一字を用いています。
そのようにして、仏教の信仰者であり、武将でもある自分の精神的なありようを形成していったものと思われます。
このことが、戦いに明け暮れる身でありながらも、なるべく人に慈悲や情けをかけるようにしていた、謙信の生き様に反映されていると思われます。
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