上杉謙信(長尾景虎) 軍神と呼ばれ、信義に生きた武人の生涯について

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能登攻略

能登は畠山氏が古くから守護として支配しており、謙信は同盟を結ぶように持ちかけ、平和的に事態を解決しようと試みます。

畠山氏もまた、足利幕府によってその権威を認められた存在でしたので、その再興を目的としている謙信に協力しても、おかしくはありませんでした。

しかしこの頃の畠山氏は、当主の春王丸がまだ幼くて実権がなく、長続連という重臣に牛耳られていました。

長続連は織田信長に従うことを選択したため、謙信は戦わざるを得なくなり、能登に進軍し、畠山氏の本拠である七尾城を包囲します。

七尾城は堅城であったため、攻めきれずに一度引き返しますが、翌年に再度これを包囲して、長続連を追い詰めていきます。

この時、七尾城は周囲の住民を城内に接収する措置を取っていたのですが、このために人口が増えすぎて衛生環境が極度に悪化し、疫病が蔓延してしまいます。

ついには幼主・春王丸までが病死してしまい、城内に厭戦感情が高まっていきました。

この頃には足利義昭や、中国地方を支配する毛利輝元から救援を求める書簡が届いていたこともあって、謙信は珍しく調略を用いて七尾城を陥落させます。

畠山氏には長続連と対抗する遊佐続光という武将がいたのですが、この人物に働きかけ、城内で反乱を起こさせました。

この結果、長続連は殺害され、謙信は七尾城を支配下に置くことができました。

そして能登を暫定的に上杉氏の勢力下に組み込みますが、将来的には畠山氏を復興させ、能登の領主に据え直す意向をもっていました。

謙信はあくまでも室町幕府の秩序体制を守ることを、自身の行動原理として堅持し続けていたのです。

手取川の戦い

謙信の七尾城攻略の最中に、織田信長は長続連からの援軍要請を受けており、配下の主な軍団長たちに動員をかけ、4万という大軍を編成します。

そして柴田勝家を総大将として加賀(石川県の金沢あたり)にまで軍を進ませます。

この時にはすでに七尾城は陥落していましたが、織田軍団はその情報を得ていませんでした。

織田軍団の接近を知った謙信は、ただちに七尾城から出陣し、迎撃にあたります。

一方で柴田勝家は、手取川を渡河したところで、ようやく七尾城が陥落したという情報を得ていました。

これを受けて慌てて撤退を開始しますが、ちょうどその機に謙信が戦場に到着し、織田軍に追撃をかけます。

川を渡って戻ろうとしていたところに謙信の攻撃を受けたため、織田軍は総崩れとなり、溺死者を含めて数千の死傷者を出す大きな損害を受けました。

この織田軍団の大敗を受け、大和(奈良)の松永久秀が信長に反旗を翻しており、反織田勢力が、謙信の活躍によって活況を呈する情勢になりました。

この時の反織田の陣営は、武田勝頼、本願寺顕如、毛利輝元、松永久秀といった面々が数えられます。

この面々の中心にいて、強大な勢力となった織田信長に対しても、唯一攻勢をかけられる実力を持っていたのが謙信でした。

信長からすれば、信玄の西進以来、二度目の大きな危機を迎えたことになります。

その最期

手取川の戦いが行われた1577年の年末に、謙信は本拠である春日山城に帰還しています。

そして翌年の3月15日に次の遠征を行うことを家臣たちに告げ、その準備をさせています。

しかし、遠征をあと6日に控えた3月9日に、謙信は急な病で倒れてしまいます。

その4日後、3月13日の未明に、謙信は室町幕府復興の志半ばで死去しました。

享年は49でした。

倒れてからしばらく昏睡状態に陥っていたことから、死因は脳溢血ではないかと見られています。

謙信は酒と塩分の多い肴を好んでいたとされ、それがこの病に繋がったのだと言われています。

遺骸には鎧が着せられ、太刀を帯びた姿で埋葬されました。

生涯を戦いに明け暮れた謙信は、死してなお武者の姿で眠っていることになります。

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