1566年には、将軍の足利義輝が二条御所で殺害されてしまいました。
これは三好義継や松永久秀といった、足利義輝に仕える幕臣たちの手によるものでした。
彼らは足利義輝を傀儡にして政権を掌握したかったのですが、足利義輝は自らの遺志で政治を行い、将軍の権力を回復させようという意識を強く持っていました。
三好義継らはそのことが気に入らず、権力掌握のために足利義輝の抹殺を図ったのです。
こうして将軍が白昼堂々と、その家臣によって殺害されるという変事が発生しました。
同じような事態は6代将軍・義教の時にもあったのですが、その際には将軍を殺害した赤松氏は、すぐに攻め滅ぼされています。
しかし今回は、誰も三好義継や松永久秀を罰することができませんでした。
こうした動きによって、室町幕府の権威は完全に失墜しました。
関東管領という室町幕府の要職につく謙信にしても、この事件は大きな衝撃だったことでしょう。
謙信は畿内に乗り込んで三好義継や松永久秀を討伐したいと思いましたが、越後から京都は遠く、これを果たすことはできませんでした。
東北に勢力を伸ばす
その後も関東で北条氏と抗争を繰り広げますが、1568年には越後周辺の情勢が悪化したため、謙信はそちらに軍を向けざるを得なくなります。
越中(富山)の大名で、謙信に服属していた椎名康胤が、信玄の調略を受けて寝返ったのです。
椎名康胤は越中の一向一揆とも協力関係を築いていたため、これを放置することはできませんでした。
このため、謙信は越中に攻め込みますが、すると今度は反対側の、越後の北東部に勢力を持つ本庄繁長が反乱を起こします。
これもまた信玄の謀略によるものでした。
この時期の信玄は、南の駿河侵攻を本格化していましたが、その間に北から謙信に攻撃されることを避けるため、後方を撹乱したのです。
謙信は越中攻略を中断して越後に取って返し、本庄繁長と、彼に手を貸す大宝寺義増を攻撃します。
まず出羽(山形)庄内地方に領地を持つ大宝寺義増を降伏させ、ついで本庄繁長が篭もる本庄城に猛攻を加え、すぐに陥落させます。
そして本庄繁長から嫡男を人質として差し出させることで、帰参を許しました。
この結果として、思わぬ形で出羽にも勢力を拡大することになりました。
信玄の陰謀が、かえって謙信の勢力を増大させたことになります。
北条氏康との同盟
北条氏康は謙信にとってもうひとりの宿敵とも呼べる存在でしたが、情勢の変化を受け、謙信との同盟を模索するようになります。
武田信玄は駿河の今川氏が、今川義元の死によって弱体化するのを見て、同盟を破棄して駿河に侵攻を始めていました。
武田信玄の嫡男・武田義信は、今川義元の娘と結婚していたために、武田信玄のこの方針に反対します。
しかし武田信玄は、義信を幽閉して自害させ、侵攻を断行しました。
武田信玄の、この信義にもとる行動に北条氏康は怒り、武田氏との同盟を破棄しています。
これによって、長年謙信を悩ませた北条・武田同盟の体制が崩れることになりました。
この後で武田信玄は駿河の攻略に成功し、北条氏康の本拠である小田原城にも攻め込める状況になりました。
こうして北条氏康は東に武田、北に上杉、西に里見と、三方に敵を抱えてしまい、窮地に立たされます。
一方で謙信は、関東への出兵で成果を上げられていないことから、家臣たちに不満が高まっていることを感じていました。
その上、関東の重要拠点である関宿城が北条氏の攻撃を受けて危機に陥っていたことともあり、北条氏康との同盟を受諾することになります。
これによって上野の豪族が北条から上杉の所属にかわり、謙信は上野の拠点を確保することができました。
また、謙信の関東管領としての立場を氏康は認め、以後は逆らわないことを約束します。
こうして謙信と氏康の長きに渡った抗争が終わり、謙信は攻略途上だった越中に再び軍を入れることになります。
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