北条高広の謀反
越後に帰国した謙信は、武田信玄の謀略によって家臣の謀反に遭遇することになります。
北条高広という武将が武田側に寝返りましたが、これをすぐに討伐しています。
北条高広は罰せられることもなく帰参を許され、謙信の配下として復帰しています。
謙信は家臣が自分を裏切ったとしても大抵の場合は許しており、寛大な措置を取っていました。
謙信は人に対してなるべく慈悲深くあろうとしていましたが、このことが、家臣たちの謀反が頻発する理由にもなってしまいます。
謀反を起こしても許されるため、家臣たちからすると、謙信は謀反を起こしやすい主君だ、という認識になってしまうからです。
武田信玄は次々と同様の計略をしかけてくるため、謙信は長い間、この問題に悩ませられることになります。
それでも家臣たちを厳しく処断することはめったになく、それが謙信という人でした。
信玄と二度目の対決
北条高広が謀反を起こしている隙をついて、武田信玄は北信濃に再度侵攻して来ました。
これに対して謙信も再び北信濃に進軍し、武田信玄と5ヶ月に渡ってにらみ合いを続けます。
武田信玄が決戦を避けるため、どうしてもこの対戦は長引いてしまう傾向にありました。
最終的には駿河の今川義元の仲介を受け、武田信玄が川中島周辺で獲得した領土を元の領主に返す、という約束で和睦しました。
事実上謙信は勝利したわけですが、謙信自身の領地は増えていません。
謙信はあくまで、北信濃の豪族たちを守るために出兵をしていたのです。
北信濃の豪族の高梨氏は謙信と縁戚関係にあり、これを武田信玄の侵攻から保護する、という理由もありました。
謙信はその気になれば領土拡張が容易なだけの実力を持っていましたが、それを利己的な目的で使うことはありませんでした。
このあたりのふるまいが、謙信がこの時代にあって、際立って個性的なところです。
謙信には独自の正義の価値観があり、それを行動の指針として掲げ、戦国の世を生きていたのです。
出家と帰還
謙信は1556年、26才の時に不意に出家を決意します。
そして幼い頃の師匠だった天室光育に遺書を託し、真言宗の総本山である高野山に登ろうとします。
これは家臣たちの紛争の調停に疲れ切ってのことだとされています。
謙信は現世的な欲望が乏しい、理想家肌の人物でした。
そのため、いつまでも利己的な小競り合いを繰り返す欲深い領主たちの争いに、関わり続けることに嫌気がさしたのかもしれません。
この時は義兄の長尾政景や天室光育らの説得を受け、出家を断念して越後に帰国しています。
これを受けて家臣たちは「以後は謹んで臣従し二心を抱かず」という誓詞を差し出しており、越後の領主たちの小競り合いは、以後収まっていったようです。
この時の謙信の行動は、謙信がいなくなると越後が元の混乱状態に陥ってしまうと家臣たちに恐れさせ、求心力を強化することにつながりました。
謙信はそれを計算していた、という説もありますが、謙信の性格からして、出家は本気だったと見るのが正しいかと思われます。
こうして越後の情勢は落ち着いていきますが、武田信玄も北条氏康も領土拡張の野望を収めることはなく、他勢力との抗争は続いていきます。
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