明智光秀は低い身分から織田信長に引き立てられ、多くの領地や軍の指揮権を与えられた武将です。
しかしやがて光秀は謀反を起こし、京都の本能寺で織田信長を討ちました。
そして天下人になることを目指しますが、その野心は世から受け入れられず、裏切り者として多くの敵を作ることになり、あえなく滅亡しています。
この文章では、どうして光秀は信長を裏切ったのかについて、書いてみます。
【信長に謀反を起こし、自らも滅んだ明智光秀の肖像画】
不明な前半生
明智光秀は1528年に美濃(岐阜)で生まれた、と言われていますが、異説が複数あり、出自がはっきりとしていません。
父親が誰なのかも定まっておらず、その出生は謎めいています。
明智氏は美濃の守護・土岐氏の一族であるとされていますが、父の名前も伝わっていないことから、かなり低い身分の出身だったのではないかと言われています。
光秀はかつて足軽(最下級の兵士)や中間(雑用係)だったという記録も残っています。
織田信長の家臣には羽柴秀吉や滝川一益のように、他にも出自がはっきりしない武将が数多くいましたので、そのことが取り立てて問題になることはありませんでした。
しかしながら、元々は低い身分の出であり、主君であった斎藤道三が滅亡した後に流浪し、生活にも苦労した経験を持っていたことには、留意しておいたほうがよいでしょう。
朝倉義景に仕える
光秀は斎藤道三の滅亡後、越前(福井県)を治める朝倉義景に仕官します。
しかし、朝倉氏からはさほど評価されず、身一つで仕える足軽程度の扱いだったようです。
その状態で10年の時を過ごしていましたが、将軍家の一族である足利義昭が朝倉氏を頼って越前にやってきたことから、光秀の運が開けます。
この頃の足利義昭は、自分を将軍の地位につけてくれる有力者の援助を求めていました。
それを朝倉義景に求めたのですが、なかなか応じてもらえません。
業を煮やした義昭は、この頃に美濃(岐阜)を領有して勢力を大きく伸ばしていた、織田信長を頼ることを考えます。
そして家臣の細川藤孝を織田信長の元に使者として送りますが、この時に光秀も使者に取り立てられました。
光秀は織田信長の正室である濃姫と血縁関係にあったようで、それを活かせば交渉がしやすくなると細川藤孝に売り込んだのかもしれません。
光秀はかつて細川藤孝に足軽として仕えていたという記録もあり、この時はその家臣として随従していた可能性もあります。
織田信長の家臣になる
光秀は信長と交渉するうちに、濃姫と血縁関係にあることが知られると、一躍500貫の身分に取り立てられます。
これは100人の歩兵と10人の騎兵を率いる身分で、織田軍の将校に取り立てられた、ということになります。
信長は身内に甘く、これを重用する傾向にありましたので、光秀が濃姫との血縁があると知って、用いてみる気になったのかもしれません。
また、信長は常に有能な人材を求めていましたので、光秀がその能力を見出された、ということでもあるのでしょう。
ともあれ、それまで長く屈従を強いられていた光秀の運命は、信長に会うことで一度に開けていきました。
この時すでに、光秀は39才になっていました。
まさか後に、この光秀によって命を奪われることになろうとは、さすがの信長も、まるで予想していなかったことでしょう。
【次のページに続く▼】