中川清秀は戦国時代に活躍した猛将です。
元は一介の小領主に過ぎませんでしたが、羽柴秀吉と明智光秀の決戦となった「山崎の戦い」などで活躍し、12万石の大名にまで出世しています。
清秀は数多くの戦場で、引くことを知らぬ勇敢な戦いぶりを見せますが、やがてそれが、彼に死をもたらすことにもなりました。
この文章では、そんな清秀の逸話と生涯を紹介します。
【中川清秀の肖像画】
摂津に生まれる
清秀は1542年、摂津(大阪府)の小領主の家に生まれました。
当時の摂津には、国をひとつに束ねられるほどの大勢力がなく、中小の領主たちが入り乱れ、抗争を繰り返していました。
そんな状況下で、武勇に秀でた清秀は、いくつかの戦いで目立った功績をあげ、勢力を伸ばしていくことになります。
本圀寺の変で活躍する
清秀の名が世に現れたのは、1569年1月に発生した「本國寺の変」でした。
これは信長に推戴されて上洛を果たし、前年に将軍になったばかりの足利義昭が、三好氏の襲撃を受けた事件です。
義昭が将軍になる前の京都は、三好氏が支配していたのですが、6万を号する信長の大軍に恐れをなし、逃げ去っていました。
しかし信長は上洛を果たした後、すぐに軍勢を岐阜に戻しており、義昭の身辺を守る戦力は少なくなっています。
三好氏はこの機会に義昭を倒し、京における勢力を回復させようと企みます。
そして義昭が仮の御所としていた本國寺に、1万の兵力で攻撃をしかけたのでした。
義昭の身辺には、明智光秀や若狭(福井県西部)の国人衆が率いる2千の兵がいただけで、本國寺はさほど堅固な施設でもなく、かなりの危機に陥ったのだと言えます。
この時に摂津の有力領主・池田勝正は義昭の救援におもむくことにし、急ぎ京へと駆けつけました。
清秀も池田勝正に従い、この戦いに加わることになります。
一度敗れるも、奇襲をしかけて勝利する
摂津勢は1月5日に桂川で三好勢と戦いますが、敗北して後退しました。
数の差があり、不利を悟った摂津勢の一部はそのまま逃げ散ってしまいましたが、清秀をはじめとした20名ほどの小領主たちは、そのまま京の近郊に踏みとどまります。
そして清秀は「三好勢は今日の勝利で我らを追い払ったと思って油断するだろうから、明日の未明に奇襲をかけよう」と諸将に申し入れ、この策が採用されます。
清秀らは6日の未明に梅津を渡り、四条大宮から本國寺に向かい、これを包囲している三好勢に奇襲をしかけます。
この攻撃を予想していなかった三好勢は崩れ立ち、本國寺の内部からも攻撃を受けたことで、混乱に陥りました。
そして攻撃の失敗を悟って撤退を始めるのですが、清秀らは追撃をかけ、三好勢に大きな損害を与えました。
こうして戦いは義昭側の勝利に終わり、清秀は諸将とともに義昭に謁見し、武功を称賛されています。
これが清秀が、中央の大きな戦いで名を表すきっかけとなりました。
この戦いの時から既に、引くことを知らない勇猛果敢なところが現れています。
荒木村重の野心
その後、京に戻った信長は畿内の支配に乗り出します。
そして摂津に対しては、自分に従った池田勝正、和田惟政、伊丹親興の3者を「摂津三守護」とし、分割して統治するように命じました。
このような措置をとったことからも、摂津の情勢が混沌としていたことがうかがえます。
そしてこれに不満を抱いたのが、野心と実力を備えた荒木村重という武将でした。
信長が裁定しても摂津の情勢は鎮まらず、村重は乱世であることを活用して、摂津を我が物にしようともくろみます。
清秀はこの村重に協力し、摂津で頭角を現していくことになります。
【後世に描かれた荒木村重の錦絵】
【次のページに続く▼】