松永久秀は低い身分の出身でありながらも、大和(奈良県)一国を支配する大名になり、高い官位を得て、将軍の側近にまで成り上がった武将です。
しかしその生涯において、主君の三好長慶の一族を暗殺し、将軍・足利義輝を殺害し、東大寺の大仏殿を焼き討ちし、織田信長を二度にわたって裏切るなど、悪事の限りを尽くしたと言われています。
このために戦国時代における梟雄の代表的な人物とされているのですが、これは過剰に装飾された、伝承の類いでもあるようです。
この文章では、久秀が極悪人だったのは本当なのか、その事跡を追いながら見ていこうと思います。
【松永久秀の肖像画】
不明な出自
久秀は1508年に生まれましたが、出身地については諸説あり、前半生は不明なままとなっています。
一説によると、京・西岡の出身で、商人になった後、1533年に三好長慶に仕官した、と言われています。
西岡は美濃(岐阜県)を奪取した梟雄・斎藤道三の出身地でもあり、これが事実であるとすれば、出世欲が旺盛な人物が登場しやすい気風があったようです。
(なお、他には摂津(大阪府)の土豪の出身であったという説もあり、近年ではこちらが有力視されているようです。)
三好家で頭角を現す
久秀が仕えた頃の三好長慶はまだ12才で、しかも父・元長を主君の細川晴元の陰謀によって殺害されるなど、不安定な立場に置かれていました。
細川晴元は室町幕府の管領という、将軍に次ぐ高い地位にありましたが、元長の勢威が高まっていたのを恐れ、これを暗殺したのです。
こうして危機に見まわれていた長慶に、どうして久秀が仕えることにしたのかは不明ですが、そのような状況だからこそ、新参の久秀が入り込みやすかったのかもしれません。
久秀ははじめ、長慶の右筆(秘書)として仕えており、身近なところに控え、日常的に接する立場にあったと考えられます。
初めは行政面で地位を得ており、1540年頃から、各地に発給された文書に久秀の署名が認められるようになります。
さらに、1542年には武将としても活動を始めており、行政と軍事の両面において、長慶を支えていきました。
長慶から重要な立場を与えられる
久秀は信長を二度も裏切ったことから、反骨精神の持ち主であると見られることが多いのですが、長慶に対しては忠実に仕えており、一度も裏切ったことはありません。
1549年になると、長慶は細川晴元との抗争に勝利し、晴元と手を結んでいた13代将軍の足利義輝を京から追放し、その支配権を握っています。
久秀はこの頃に寺社や公家との折衝役を任され、京の防衛も担当するなど、三好政権を維持するための、重要な役割を担いました。
1550年には、京への帰還をもくろんだ細川晴元の配下たちと相国寺で戦い、4万の大軍を集めて敵を撃破し、三好氏の畿内における優位性を確立しています。
それから数年がたつと、長慶は義輝と和解して室町幕府の実権を握り、久秀も幕政に参画していくことになります。
そして長慶から娘を正室として与えられており、主君から深く信頼を受けていたことがうかがえます。
娘婿となったことから、三好一門と同等に扱われるようになっていた、と言えます。
大和の信貴山城主となり、将軍義輝に仕えるようになる
その後、三好氏は畿内に勢力を拡大し、本拠である四国の阿波(徳島県)などを合わせ、8ヶ国を支配するほどの大勢力を構築しました。
この過程で、久秀は長慶の命令によって大和(奈良県)に入り、北西部にある信貴山城を居城とし、侵攻を始めます。
1560年には、興福寺などの寺社勢力を打ち破って支配領域を拡大する一方で、将軍・義輝の御供衆に任じられ、弾正少弼(だんじょうしょうひつ)という官位に任官しています。
この御供衆への任命は、長慶の後継者である三好義興と同時であり、久秀の立場が三好氏の中で、相当に強いものになっていたことわかります。
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