戦国時代に関東で勢力を広げていた北条氏康は、1546年に河越城を8万という大軍に包囲され、危機に陥ります。
これは関東管領の上杉憲政や、古河公方の足利晴氏が、北条氏討伐のために各地の諸侯に呼びかけ、兵力を結集した結果です。
対する北条氏の兵力は1万程度のものでしたが、氏康は果敢な奇襲攻撃によってこの大軍を討ち破り、関東における優位を確定させました。
この「河越夜戦」は後世から「日本三大奇襲」に数えられ、戦国時代の代表的な戦いの一つとして知られることになります。
この文章では、どうして氏康は圧倒的な兵力差を覆して勝利できたのか、について書いてみます。
【北条氏康の肖像画】
戦いの背景 – 北条氏の武蔵への進出
まず、この戦いが発生した背景から触れていこうと思います。
戦国時代の関東地方は、室町幕府より任じられた古河公方が中心となって、関東管領の上杉氏がそれを支える、という体制によって秩序が形成されていました。
古河公方は将軍家の足利氏の一族で、関東の統治権を幕府から委ねられた存在です。
関東管領はこれを補佐し、実際の政務を担当する立場でした。
しかし伊豆や相模(神奈川県)を根拠地として北条氏が勃興したことにより、この状況は大きく変化していくことになります。
北条氏は初代の早雲が戦国大名としての地位を確立した後、2代目の氏綱もまた積極的に領地の拡大を図っていきました。
この氏綱が氏康の父親です。
やがて氏綱は、古河公方や関東管領が内紛で弱体化した隙をつき、武蔵(埼玉から東京一帯の地域)の河越城を攻め落とします。
河越城は関東管領の一族・上杉朝定(ともさだ)が治めていた城で、武蔵の重要拠点でした。
こうして北条氏は武蔵に進出し、同時に関東管領の一族の力を削ぐことにも成功しています。
北条氏への反発が高まる
しかし、武蔵に進出して上杉氏の領地を奪ったことで、関東における北条氏への反発が高まることにもなりました。
この頃に上杉氏は、「山内上杉氏」と「扇谷(おうぎがやつ)上杉氏」という2つの氏族に分かれて抗争を続けていました。
しかし北条氏という共通の敵が現れたことで、やがて両者は争いを収めるようになっていきます。
また、下総(千葉県北部)に勢力を持つ足利義明(古河公方の一族)はそれまで氏綱に協力したり、時に敵対したりと付かず離れずの関係を続けていましたが、河越城が落ちたことで、氏綱の勢力の拡大に危惧を覚えるようになりました。
このため、足利義明は河越城を奪われた上杉朝定への支援を始め、北条氏に敵対する姿勢を明らかにします。
こうした情勢の変化により、関東は北条氏と反北条勢力が別れて争う、という形勢になっていきました。
新興勢力である北条氏の躍進が、旧勢力である足利氏と上杉氏に危機感を与え、彼らが連合を組んでいく流れを作り出したことになります。
氏綱の死と氏康の継承
その後、氏綱は房総半島に進出し、足利義明と里見氏の連合軍を討ち破り、下総(千葉県北部)にも勢力を拡大しています。
また、西に隣接する今川義元とも対立するようになり、やがて駿河(静岡県)に攻め込んで、河東(かとう)という地域を占領しました。
こうして順調に領地の拡大を続けるのですが、氏綱は1541年に、病によって没してしまいます。
このため嫡男の氏康は、西と東に敵を抱えた情勢で北条氏の家督を受け継ぐことになり、当主となって早々に、困難な舵取りを強いられることになります。
北条包囲網
1545年になると、今川義元と関東管領の上杉憲政、そして上杉朝定が同盟を結び、同時に北条氏への攻撃を開始しました。
義元は氏綱に奪われていた河東を取り戻すために侵攻し、これを迎え討つために氏康は駿河に向かいます。
しかし北条軍は今川軍に敗れ、河東の拠点をいくつも失ってしまいます。
こうして氏康が駿河に釘付けになっている間に、上杉憲政と上杉朝定も武蔵に向けて軍を動かし、河越城を包囲しました。
こうして氏康は東西からの同時攻撃を受け、窮地に陥ります。
このままでは河越城の救援にも向かえないため、氏康は義元との和睦を考えるようになりました。
今川義元と和睦する
この時に甲斐(山梨県)の支配者である武田晴信(後の信玄)が、氏康と義元の仲介役になりました。
氏康は「河東の領地を義元に割譲する」という不利な条件を受け入れ、今川氏との戦いを終結させます。
これによって駿河での根拠地を失いましたが、これを飲まなければならないほどに、氏康は追い詰められていました。
こうして1546年には西側での抗争を終わらせ、敵を東側のみに絞ることができましたが、その頃には河越城を包囲する軍勢は、かつてないほどの規模に膨れ上がっていました。
【次のページに続く▼】