比叡山・延暦寺は織田信長に焼き討ちを受けたことで知られていますが、武家との抗争はこれが初めてではなく、三度も主要な建物が焼失する事件が発生しています。
比叡山焼き討ち事件は、場所が寺院であるだけに、刀や槍を持った武士たちが、無力な僧侶たちを一方的に、無残に殺害したのだろう、というイメージをもたれがちです。
しかし実際には、比叡山は多くの僧兵を抱える武装勢力でもあり、桓武天皇から信奉された開祖・最澄(さいちょう)や、その後に続いた名僧たちの威光をもって、朝廷や鎌倉幕府を圧迫できるほどの、強大な権勢を誇っていたのです。
平安時代に院政を敷き、朝廷を支配していた白河法皇は「山法師(比叡山の僧兵のこと)は朕が心にままならぬもの」と述べ、思うように制御できないことを嘆いています。
また、鎌倉幕府を開いた源頼朝も、重臣の佐々木定綱を、延暦寺からの要求によって追放せざるを得なくなった、という事件も起こっています。
このように、延暦寺は時の権力者たちも容易に手を出せない、宗教的な威光と軍事力を備えた、聖域だったのだと言えます。
足利義教が制圧を試みる
この延暦寺を制圧し、従わせようとした最初の権力者は、室町幕府の6代将軍・足利義教(よしのり)でした。
義教は将軍になる前に天台座主(てんだいざす)という地位にあり、比叡山の長を務めています。
それゆえか、将軍となってからも比叡山を自分に従わせたいと考えたようで、幾度にも渡って従属化を試みました。
義教は非常に支配欲が強い人物でしたので、京都の近郊に、朝廷からも幕府からも独立した勢力が存在していることは、とうてい許せなかったのだと思われます。
【始めて延暦寺の制圧を試みた、足利義教の肖像画】
比叡山の僧が義教に呼び出され、斬首される
しかし、制圧しようとするたびに諸大名から反対の声が上がり、和議を勧められることが多く、義教はなかなか自身の思い通りにすることができませんでした。
業を煮やした義教は、1435年に延暦寺の有力な僧たちを招き、その席で捕縛し、斬首するという強硬手段に出ています。
当然のごとく、延暦寺の僧たちは強く反発し、「根本中堂(こんぽんちゅうどう)」に立て籠もって義教を非難しました。
根本中堂は開祖・最澄が建てた草庵がその起源であり、比叡山の中核を成す重要な宗教施設です。
義教は抗議を受けても、延暦寺に対する厳しい姿勢を改めることはなく、やがて絶望した僧たちは根本中堂に火を放ち、焼身自殺を遂げています。
この時に他の建物も焼かれてしまっており、焼き討ちとは異なりますが、初めて延暦寺が大規模に焼失した事件となっています。
義教の死後、延暦寺は武装強化を図る
こうして義教は史上初の、延暦寺に勝利した権力者になりました。
義教はその後、焼失した建物を再建させており、自分に従いさえすればそれでよく、徹底的に滅ぼそうとまでは思っていなかったようです。
しかし、義教がやがて「嘉吉(かきつ)の乱」で殺害されると、延暦寺は再び武装するようになり、数千規模の僧兵を擁し、権力から独立した状態を回復します。
僧兵を増強したのは、義教の苛烈な措置の影響を受け、延暦寺が自衛のための武装強化を図ったためだと思われます。
このことが、さらなる暴力を延暦寺に呼び込むことにつながります。
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