比叡山は三度焼かれる – 織田信長に至る、比叡山焼き討ち事件の経緯について

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延暦寺は攻撃中止を要請するも、信長に拒否される

信長は3万の軍勢を率い、9月11日に延暦寺を包囲しました。

この時に恐れをなした延暦寺は、金貨300枚を贈って信長に攻撃中止を要請しますが、これが受け入れられることはありませんでした。

金貨を多量に所有していたのは、高利貸しを行っていたためで、ここにもその堕落の痕跡を見ることができます。

信長は翌日の早朝からの攻撃開始を決定します。

早朝にしたのは「夜になると闇にまぎれて逃げおおせる者も出てくるでしょうが、早朝を待って攻めれば、1人も討ち漏らすことはないでしょう」という意見を家臣が述べたためでした。

このことから、織田軍全体が延暦寺への攻撃に積極的だったことがわかります。

延暦寺が焼き払われ、数千の人々が殺戮される

9月12日の早朝に、信長は総攻撃を開始し、根本中堂を初め、主要な建物を全て焼き払い、僧侶や美女、子どもにいたるまで、数千人を殺戮した、と言われています。

美女が含まれるのは、当時の延暦寺の周辺には遊女も住み着いていたためで、それほどに風紀が乱れていたようです。

しかし、実際には先の細川政元の焼き討ちの際に、既に焼失していた建物が多く、この時に焼失したのは根本中堂、および大講堂のみであった、という調査結果があります。

当時の延暦寺は、以前に比べると衰退していたようで、数千人が殺戮された、という話は誇張されている可能性もあるようです。

いずれにしても、信長によって攻撃がなされたのは確かであり、信長は再建も許さなかったため、その後しばらくの間、延暦寺は荒廃した状態で放置されることになりました。

寺院でありながら、武家の闘争に関与したことへの、報いであったと言えます。

非難の声はそれほど大きくなかった

この見方は当時からされていたようで、信長に対する非難の声はさほど上がらず、朝廷から正式に抗議がなされることもありませんでした。

比叡山は本来、京都の鬼門を封じる重要な寺院で、朝廷から大事に扱われていたのですが、この頃にはその評価も大きく下がっていたようです。

江戸時代の歴史家・新井白石も「残忍な行いではあるが、比叡山の凶悪を除いたことは、天下への功績だ」と記しており、後世からは、むしろ信長の焼き討ちは評価されているほどでした。

徳川家光によって再建される

その後、生き延びた延暦寺の僧たちは、信長に代わって天下を制した豊臣秀吉や、徳川家康に接近し、武家との関係を改善します。

そして1634年になると、徳川幕府の3代将軍・家光によって根本中堂の再建事業が開始され、1641年に完成しました。

現在の根本中堂は、この時に建築されたもので、1953年には国宝に指定されています。

江戸幕府は寺院を全て統制下に置き、好き勝手ができないように制御しましたので、以後の延暦寺が、独自の権力を保有したり、僧兵を蓄えるようなことはなくなっています。

こうして朝廷の庇護と崇敬を受けたが故に、増長していった寺院勢力は武家に打ちのめされ、支配下に置かれ、本来のあるべき姿へと戻っていくことになりました。

武家の勃興と、寺院勢力の衰退

中世において、寺院は強大な勢力を形成しており、権力者を屈服させるほどの力を備えていました。

寺院は朝廷から保護され、かつ「鎮護国家」の名の下に、国家の権威を宗教的な側面から補完する立場にあったため、大きな威光を持つようになったのです。

しかし、新たに武家勢力が勃興してくると、彼らは旧来からの権威に縛られず、仏教を特別視しなかったため、弾圧を受け、衰退することになりました。

足利義教、細川政元、織田信長の3名は、そのような世情の変化を象徴する存在だったのだと言えます。