比叡山は三度焼かれる – 織田信長に至る、比叡山焼き討ち事件の経緯について

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細川政元に焼き討ちされる

1499年になると、今度は室町幕府の管領(将軍の補佐役)・細川政元によって焼き討ちされる事件が発生します。

この時の室町幕府は混乱期にあり、10代将軍の足利義稙(よしたね)が、政元が起こしたクーデターによって追放されていました。

これは足利義稙と政元の間で、政治方針が対立したのが原因です。

政元は代わりに11代将軍・足利義澄(よしずみ)を擁立して幕府の実権を握りますが、追放された足利義稙は政権復帰を諦めておらず、将軍家が二つに分裂した状況になりました。

【始めて延暦寺を焼き討ちした、細川政元の肖像画】

延暦寺が幕府の争いに介入する

北陸に逃れた足利義稙は、周辺の守護大名たちの支援を受け、軍勢を引き連れて上洛し、権力を回復しようと試みます。

この時に延暦寺は足利義稙を支持し、幕府の権力争いに介入したのです。

このあたりは、完全に寺院というものの立場を見失った、誤った判断だったと言えるでしょう。

僧兵を蓄えたことで、思考が武家のものに近づいていたのかもしれません。

政元は延暦寺への攻撃を決断する

足利義稙が北陸から近江(滋賀県)にまで進軍してくると、政元は焦ります。

比叡山は京都のすぐ側にあり、数万の兵を収容できる軍事拠点としても活用できますので、そこに足利義稙の軍勢が入ると、戦術的に不利な立場に置かれてしまうからです。

このままでは抗争に敗れる危険があったため、政元は速やかに延暦寺への攻撃を決意し、7月11日の早朝から、家臣に命じて焼き討ちを行わせました。

この攻撃で、根本中堂を初めとして、大講堂や法華堂など、主要な施設は全て焼失し、延暦寺は再び大きな打撃を受けることになります。

僧兵を多く蓄えても、武家による本気の攻撃には、かなわなかったようです。

延暦寺の権威が衰えていたことが証明される

政元のためらいのない攻撃から見るに、この頃にはすでに延暦寺に対する崇敬の心も、相当に衰えていたようです。

殺生を禁じるのが仏教の教えであるのに、延暦寺は僧兵を蓄えるという矛盾を犯し、武家の権力争いに加担したわけで、それゆえに、世間の延暦寺を見る目も冷たくなっていたのだと思われます。

宗教勢力が人々から敬意を払われるのは、あくまでその教義を守ってこそであるのですが、この時の延暦寺は、その基本を見失っていたようです。

しかし、延暦寺はこのようにして手痛い打撃を受けたにも関わらず、同じ失敗を繰り返すことになります。

織田信長による焼き討ち

そして1571年に、織田信長による有名な焼き討ち事件が発生します。

この時に信長は北近江の大名・浅井長政と、越前(福井県)の大名・朝倉義景と争っていました。

1570年に浅井・朝倉連合軍は、信長の支配下にあった南近江に進軍していましたが、信長の軍勢が側に迫ると、比叡山に登って籠城を始めます。

これを包囲した信長が戦いを挑みますが、浅井・朝倉軍は応じず、籠城を続けました。

速やかに決着を付けたい信長は、延暦寺に浅井・朝倉軍を追い出すように要請しますが、拒否されています。

この対応によって、延暦寺は信長から、敵対勢力だとみなされるようになりました。

先の政元の時と同じく、武家の争いに関与してしまったことになります。

【二度目に比叡山を焼き討ちした織田信長の肖像画】

信長は延暦寺への攻撃を決意する

信長はこの時、摂津(大阪府)や伊勢の一向一揆と、三好三人衆などの諸勢力からも攻撃を受けていました。

このため、延暦寺の周辺に多くの軍兵を釘付けにされている間に、情勢は不利になっていく一方でした。

信長のいらだちと焦りは相当に大きかったでしょうし、その分だけ、延暦寺に対する憎しみも募っていったものと思われます。

信長は将軍・足利義昭や朝廷に仲介を依頼し、浅井・朝倉軍と和睦して何とか危機を切り抜けました。

しかし、延暦寺が敵対した状況が続くと、再びどこかの勢力が延暦寺に籠もり、信長の軍事行動を妨害してくる可能性があったため、これを放置しておくわけにはいきませんでした。

翌1571年になると、信長は延暦寺を完全に破却し、軍事拠点として使用不能にすることを計画します。

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