幕末年表

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※日付は旧暦に準拠しています

月日出来事
1840〜42年清とイギリスの間でアヘン戦争が発生する
清が敗北し、アジア圏にも西洋諸国の脅威が迫っていることが、幕閣や諸侯・知識人たちに伝わる
この影響で、佐久間象山や吉田松陰らが、西洋知識の習得の必要に目覚める
1844年4月琉球(沖縄のこと。当時は薩摩藩の支配下にあった)にイギリス・フランスの軍艦が来航し、開国を迫る事件が発生する
ペリー来航のさきがけとなった事件であり、日本にもいよいよ脅威が間近に迫ったことが認識されるようになる
1851年<薩摩藩と幕政の改革が始まる>
老中首座・阿部正弘の働きかけにより、島津斉彬が薩摩藩主に就任し、近代技術を導入した工場群を建設し、「集成館事業」を開始する
これによって薩摩藩の近代化が促進され、経済力・軍事力が急速に高まり、幕末の情勢を薩摩藩が主導する上での原動力となる
阿部正弘は島津斉彬の他、水戸藩の徳川斉昭、土佐藩の山内容堂、福井藩の松平慶永ら、諸侯の中の秀でた人材を起用して、幕政改革を行うことを目指した
この頃に、オランダからアメリカの艦隊が来日を計画しているとの情報が幕府にもたらされる
1853年7月8日<ペリーの来航>
ペリーが蒸気船団を率いて浦賀沖に来航し、軍事力を背景に幕府に開国を迫る
幕府はひとまずアメリカ大統領からの親書を受け取り、返事は来年にすると引き延ばしを図った
1854年2月13日<日米和親条約の締結>
ペリーが返事の受け取りのために再度来航し、「日米和親条約」が締結され、箱館や下田が開港される(この時点では交易は行われず、船舶の補給のみが許可される)
これを受け、国内で攘夷論(外国人の排除論)が高まりを見せる
<吉田松陰の渡米計画>
長州藩士・吉田松陰が西洋事情の視察のため、ペリー艦隊に乗り込んで渡米しようとするも、ペリーに断られて失敗する
吉田松陰は自首し、長州藩の牢に入れられる
<将軍継嗣問題の発生>
時の将軍・徳川家定は病弱だったため、将軍継嗣問題が発生し、英明な一橋慶喜を将軍に据えようとする運動が発生する
阿部正弘や島津斉彬、松平慶永らがこれを主導し、幕府改革の体制を整えようとした
島津斉彬に取り立てられた西郷隆盛は、越前藩の英才・橋本左内とともにこの工作に従事し、国事に携わるようになる
これに対し、保守派の井伊直弼は紀伊藩主・徳川慶福の擁立を主張する
<安政の改革>
阿部正弘は諸侯だけでなく、水戸藩士の藤田東湖を幕府の海防政策に参画させるなどして、人材の充実を図る
品川の台場に砲台を築くなど、防衛力の強化も実施した
1855年10月2日安政の大地震が発生
水戸藩の藤田東湖らが圧死し、有能な指導者が失われ、水戸藩では過激な尊王攘夷派の暴発が目立つようになっていく
1857年出獄した吉田松陰が実家に松下村塾を開き、国体変革の思想を打ち立てつつ、弟子たちの育成に努める
この時に弟子となった久坂玄瑞、高杉晋作らが後に長州藩を主導するようになる
6月17日阿部正弘が急死し、一橋慶喜の擁立派は大きな打撃を受ける
1858年6月19日<日米修好通商条約の締結>
大老となった井伊直弼によって、日米修好通商条約が締結される
これは関税自主権のない不平等条約であり、締結に際して朝廷の勅許を得ていなかったため、尊王攘夷派の反発が高まり、不穏な情勢となる
交易が開始されると、輸出超過となって物資の不足を招き、物価が急上昇し、庶民が生活に苦しめられるようになった
これも攘夷派が支持を得る原因となる
交易の利益は幕府のみに入り、これが諸藩の反発を招くことにもつながった
6月20日井伊直弼が主導して紀伊藩主・徳川慶福が次の将軍に決まり、一橋慶喜擁立派が敗北する
7月5日<安政の大獄の始まり>
井伊直弼に条約締結を抗議した徳川斉昭や松平慶永らが、不時登城の罪を名目に、強制的に引退させられる事件が発生する
当時の規則では、大名が江戸城に登城できる日取りは決まっていたが、これを破って登城したことを処罰の理由にされた
7月16日島津斉彬は同志たちへの処罰に対し、薩摩藩兵を上洛させ、武力を背景とした抗議を行おうと計画するも、直前に病のために急死する
未遂に終わったものの、この時の斉彬の動きが、後に弟の島津久光が兵を率いて上洛することにつながる
8月8日<戊午の密勅と弾圧の本格化>
水戸藩や薩摩藩、尊王派の浪士たちの朝廷への働きかけにより、幕府を糾弾し、攘夷のための改革を迫る「戊午の密勅」が水戸藩に下される
井伊直弼の暗殺計画も発覚したことで、尊王攘夷派を弾圧するための「安政の大獄」が本格化し、浪士や諸藩士が多数捕縛される
吉田松陰もこの動きの中で収監され、やがて死罪となる
10月25日徳川慶福が家茂と改名し、14代将軍に就任する
11月16日西郷隆盛は幕府の追及を受け、近衛関白家の政治顧問・月照と心中を図るも、生還したために名を菊池源吾に変え、奄美大島に逃れる
1859年10月収監されていた橋本左内や吉田松陰が処刑される
この時の処罰は皇族・公家や諸大名にもおよび、幕府を恐れる風潮が強まる
1860年3月3日<桜田門外の変>
井伊直弼が江戸城への登城の途中、戊午の密勅の返納を巡り、対立していた水戸藩の脱藩浪士たちに襲撃され、殺害される
幕政の頂点に立つ大老が白昼堂々と殺害されたことにより、幕府の権威が揺らぎ始める
幕府が水戸藩の討伐を計画するも、会津藩主・松平容保が幕府と水戸藩の抗争を平和的に終結させ、徳川氏の分裂を防ぐ
戊午の密勅はこの時に水戸藩から幕府へと返納された
1861年<航海遠略策が唱えられる>
長州藩の重役・長井雅楽が「航海遠略策」と「公武合体」を唱えて藩論として採用され、朝廷や幕府からも賛同を得る
これは開国し、交易を盛んに行って日本の国力を高めつつ、朝廷と幕府が一体となった政治体制を構築して国内をとりまとめる、という思想で、当時は現実的な、受け入れやすい方策として認識され、幅広い支持を集めた
以後、公武合体派の動きが強まり、孝明天皇の妹・和宮が徳川家茂に降嫁されるための運動が開始される
1862年1月15日<坂下門外の変>
坂下門外の変が発生し、老中首座の安藤信正が水戸浪士に襲撃されて負傷し、失脚する
これは和宮降嫁に対し、水戸藩の尊王派が反発したために起きた事件だと言われる
<長井雅楽の失脚>
安藤信正は航海遠略策の支持者だったが、彼が失脚したことをきっかけに、長井雅楽も吉田松陰の弟子・久坂玄瑞や高杉晋作、桂小五郎らに長州藩の主導権を奪われる
以後、長州藩は攘夷・討幕主義に染まり、これを断行するため、過激な政治活動を展開するようになる
これに土佐勤王党を率いる武市瑞山も加わり、京都では尊王攘夷派の勢力が強まる
そして幕府に不満を抱く公卿と結びつき、朝廷を意のままに動かし始めた
2月11日徳川家茂が孝明天皇の妹・和宮と結婚し、公武合体の礎となることが期待された
3月薩摩藩の島津久光が兄・斉彬の遺志を継ぎ、藩兵を率いて上洛する
この事前工作のため、京都政界に顔が広い西郷隆盛が奄美大島から呼び戻され、表舞台に一時復帰する
4月23日<寺田屋事件>
島津久光は京都の旅館・寺田屋に集結した尊王攘夷派の薩摩藩士を上意討ちにし、その動きを封じる
薩摩藩は島津斉彬の影響によって開国派が主流となっていたが、下級藩士たちは攘夷派が多く、この点では長州藩とさほど差がなかった
攘夷派の暴発を抑えようとした西郷隆盛は、加担しようとしたのではないかと島津久光に疑われ、沖永良部島に追放処分を受ける
6月7日<文久の改革>
勅使と共に江戸に下向した島津久光は幕府に改革を迫り、一橋慶喜が将軍後見職に、松平慶永が政事総裁職に就任する
この働きかけにより、安政の大獄で処分を受けていた諸侯や幕臣たちが復帰する
また、京都の治安改善と尊王攘夷派の抑制のため、新たに京都守護職が設けられることになる
一方、無位無冠で「外様大名の父親」という資格しか持たない島津久光の意に屈したことにより、幕府の権威は大きく低下した
8月21日<生麦事件>
島津久光は帰路、横浜近くの生麦にて、行列に入り込んだイギリス人を家臣に命じて殺傷させる事件を起こす
この事件の影響によって、朝廷では攘夷派の勢力が高まるが、これは開国を推進したい薩摩藩の意図とは異なっていた
12月12日<イギリス公使館焼き討ち事件>
江戸の品川で建設中のイギリス公使館が、長州藩士の久坂玄瑞・高杉晋作らによって焼き討ちされる
この事件は、生麦事件を起こした島津久光に対抗するため、長州藩も攘夷活動を実行すべきだと高杉晋作が主張したことによって発生した
12月24日松平容保が幕閣の説得を受けて京都守護職に就任し、会津藩兵を率いて上洛する
以後、京都における過激派の浪士の取り締まりが強化されていく
また、松平容保は孝明天皇から信頼を受け、公武合体が促進されていくことになる
1863年3月4日徳川家茂が上洛し、孝明天皇に攘夷の実行を約束し、期日は5月10日に決まる
しかし幕府は諸外国と通商条約を結んでおり、実行の意志はなく、長州藩ら尊王攘夷派の朝廷工作によって、やむなく約束しただけであった
3月10日<新選組の登場>
上洛する将軍の警護のため、江戸で募集された浪士組が分裂し、近藤勇や土方歳三、芹沢鴨らの佐幕派の浪士たちが、会津藩に庇護を求める
幕府の浪士活用の方針を受け、松平容保がこれを承認し、壬生浪士組が結成される
この組織は後に「新選組」と名を変え、会津藩の手先として京都の治安維持の任に当たった
この当時の京都は過激派の浪士たちが横行しており、暗殺や強盗が毎日のように発生し、治安が乱れきっていたので、これを抑える目的があった
以後は会津藩・新選組と過激派の抗争が続く
3月17日イギリスの外交官が横浜に来航し、先に起きた生麦事件と、イギリス公使館焼き討ち事件の賠償金を幕府に請求する
幕府は日本の代表政府だという立場を諸外国に対して取っていたため、長州藩や薩摩藩が起こした事件の責任を負う必要があった
この事態を受け、徳川家茂や幕閣は江戸への帰還を望むようになり、公武合体の促進を図る松平容保が引き留めるも、理解を得られなかった
5月10日長州藩が期日通りに、関門海峡を通過する外国船に対して砲撃を実施する
攘夷を実施したのは長州藩のみで、幕府も他藩もこれを傍観した
6月徳川家茂がイギリスとの外交問題の処理のため、江戸に帰還する
幕府は生麦事件の賠償金として、イギリスに10万ポンドを支払う
一橋慶喜は京都に残留し、松平容保とともに朝廷への働きかけを継続した
7月2〜4日<薩英戦争>
生麦事件の賠償要求を受け入れない薩摩藩に対し、イギリス艦隊が攻撃を開始
イギリス艦隊は反撃を受けて50名以上の将兵が死傷し、薩摩藩は沿岸の砲台を破壊され、鹿児島城下や集成館を焼き払われるなど、互いに甚大な被害を受ける
以後、イギリスは薩摩藩が将来日本を制するのではないかと考え、接近を始める
薩摩藩ではイギリスの軍事力を目の当たりにし、下級藩士たちの間で主流となっていた攘夷論が衰退する
8月13日長州藩士の久坂玄瑞と、浪士の真木和泉が倒幕計画を立てていることが、薩摩・会津藩の知るところとなる
これを抑えるため、朝廷から尊王攘夷派を一掃する動きが発生する
8月18日<八月十八日の政変>
政変が起き、長州藩が堺町御門の警備から外され、三条実美ら、尊王攘夷派の公卿七名が朝廷から追放される
会津藩兵が中心となって御所の守りを固め、これを孝明天皇が支持したことから、長州藩は京都政界から追われ、三条実美らを連れて長州に撤退する
以後、京都の政界は公武合体派が占めるようになり、会津藩や薩摩藩の発言力が上昇する
12月<参預会議の開催>
島津久光が上洛して建議を行い、朝廷の会議に有力諸侯を参加させることになる
一橋慶喜、松平春嶽、山内容堂、松平容保らが朝廷会議の参預となり、この参預会議によって政務が行われる体制が敷かれる
1864年1月横浜鎖港を巡って参預会議で意見が対立し、鎖港支持派の一橋慶喜と、反対派の島津久光、松平春嶽の間に亀裂が走り、参預会議は機能不全に陥って解体される
この分裂は一橋慶喜が、薩摩藩の動きを警戒し、島津久光が政権の簒奪をもくろんでいるのではないかと疑っていたことに起因する
一橋慶喜自身は開国派であったが、諸侯が朝議に参加するのを嫌い、一時的に鎖港支持派のふりをするという策謀を用いた
この時点で薩摩藩が目指した諸侯の連合政権構想(公議政体論)は破綻し、以後は幕府との潜在的な対立関係が発生するようになる
手詰まり感が強まる中、薩摩藩の内部では、西郷隆盛を待望する声が高まる
2月21日大久保利通らが島津久光に働きかけ、西郷隆盛が藩政に復帰し、軍司令官に任命される
以後、薩摩藩の主導権は西郷隆盛と大久保利通が握っていく
西郷は上洛し、薩摩藩に対する世評の悪化への対処を開始する
世評が悪化した原因は、薩摩の商人は琉球経由で諸外国と密貿易を行っており、幕府と同じく物価高の原因を作っていると、世間から認識されたためである
西郷は薩摩の商人たちを取り締まることで、これを抑えようと努めた
6月5日<池田屋事件>
新選組が京都の旅館・池田屋に集まった多数の尊王攘夷派の士を殺害・捕縛する
これは彼らが京都に放火し、松平容保を暗殺し、天皇の身柄を奪おうという計画を立てていたため、とされている(濡れ衣だという説もある)
この時に吉田松陰の弟子・吉田稔麿が殺害された
6月27日池田屋事件に激昂した長州藩兵3千が京都付近に進軍する
これを迎撃するため、幕府は諸藩に命じて3万の大軍を京都に集結させた
長州藩は幹部を集めた大会議を開催し、進軍か撤退かで議論となるが、主戦派の来島又兵衛や真木和泉が、撤退派の久坂玄瑞を押し切り、京都に進軍することが決まる
7月18日<蛤御門の変>
来島又兵衛が長州藩兵を率いて京都市内に進軍し、御所に迫り、蛤御門で激戦となる
薩摩藩兵を率いる西郷隆盛が来島又兵衛を討ち取り、長州藩兵が壊滅する
別働隊を率いていた久坂玄瑞が自害するなど、ここでも吉田松陰の弟子が数名死亡する
真木和泉は敗走した後、天王山で自害した
7月23日<第一次長州征伐>
幕府が朝廷工作に奏上し、長州征伐の実施が決まる
尾張藩・越前藩を中心とする15万の長州征伐軍が編成される
8月5日<四国艦隊砲撃事件>
イギリス・フランス・アメリカ・オランダの4ヶ国の艦隊が、長州藩への報復のために下関を砲撃し、砲台を占拠する
8月18日高杉晋作が四国艦隊との和平交渉にあたり、講和が成立する
高杉の努力によって、領地の割譲を免れたと言われる
以後、長州藩では攘夷の困難が悟られ、過激な攘夷論は鎮まっていく
10月22日大坂で長州征伐軍の軍議が開かれ、11月に攻撃を開始すると決まる
11月4日西郷隆盛の提案により、長州藩の三家老の切腹、および三条実美ら五卿の追放を条件に長州藩の降伏が受け入れられ、討伐軍は解体される
西郷が長州藩への寛大な処置を求めたのは、幕府を勝たせ過ぎず、長州を負けさせ過ぎないようにして、突出した勢力が出現しないようにするための、薩摩藩の方針があったと見られる
12月高杉晋作がクーデターを起こし、長州藩の幕府恭順派が一掃される
以後、長州藩は再び倒幕派が主導権を握った
1865年3月幕府は二人の老中に軍兵をつけて京都に差し向け、参勤交代の復活、長州藩主、および五卿の江戸への送還を命じる勅令を出すように要求する
前年の蛤御門の変の勝利によって、幕府は武力を用いた権威の回復を目指すようになっていた
この要求は西郷隆盛・大久保利通の朝廷工作により拒否される
薩摩藩はこの頃より、幕府の勢力の抑制に動いており、対立する姿勢を見せ始める
5月西郷隆盛が土佐浪士・坂本龍馬を伴って薩摩藩に帰還し、京都の情勢を報告
幕府から長州藩への出征命令が出ても、これを拒否する方針が固まる
将軍・徳川家茂が6万の大軍を率いて上洛、武力を背景に再度の長州征伐を奏上するも、大久保利通の工作によって一旦は拒否される
6月西郷隆盛は京都で坂本龍馬と会い、長州藩が求める武器・艦船を薩摩藩名義で購入することに同意
薩摩藩と長州藩の和解が進む
この頃から薩摩藩は、長州藩や他の雄藩と同盟し、幕府と対決する路線を取り始める
9月<兵庫開港問題>
イギリス・フランス・オランダの軍艦が兵庫沖に姿を現し、延期されていた兵庫の開港を迫る
これを実現できない場合、幕府には条約の遂行能力がないと判断し、朝廷と直接交渉する、と通告されており、幕府にとっては面目を失いかねない重大な危機となった
10月7日幕府の武力を背景にした圧力に屈し、朝廷は通商条約に勅許を与える
しかし兵庫の開港は引き続き拒否される
また、長州征伐が許可され、第二次長州征伐が行われることになる
1866年1月21日<薩長同盟の締結>
西郷隆盛は京都で長州藩の代表・桂小五郎と会い、坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介により、協力を約束しあう「薩長同盟」を締結する
この同盟は極秘とされ、幕府は両藩が結びついたことを察知していなかった
直後、坂本龍馬が寺田屋で幕吏に襲撃されて負傷
西郷隆盛の意向により、薩摩藩に保護される
4月薩摩藩は西郷隆盛の提言によって軍備の拡張を決定し、藩政改革が実施される
討幕のための武力の強化が目的であった
6月7日<第二次長州征伐>
幕府による二度目の長州征伐が開始される
長州藩は高杉晋作と洋学者・大村益次郎が指揮官となって幕府軍を迎撃し、各地で連戦連勝を飾る
この頃に長州藩兵は、薩摩藩経由で入手した西洋の最新兵器で武装し、高杉や大村の優れた指揮能力によって強大化しており、数が多いだけで士気が低い幕府軍では太刀打ちできなかった
7月30日徳川家茂が病死する
これによって将軍継嗣問題が発生したこともあり、一橋慶喜は朝廷に願い出て長州藩と休戦する
一諸侯に敗れたことにより、幕府の権威は著しく低下した
武力討幕が現実的に可能なのものだとして、薩摩藩や長州藩に認識されるようになったと思われる
8月20日一橋慶喜が徳川氏の家督を継ぎ、徳川慶喜となる
12月5日徳川慶喜が征夷大将軍となり、徳川幕府の最後の将軍が誕生する
以後、徳川慶喜は幕府軍の洋式化を進め、製鉄所や造船所を設立するなど、幕府の近代化を急速に進めていった
フランスの公使・ロッシュが幕府に接近し、フランスの影響力が強まる
12月25日孝明天皇が崩御
公武合体派は支えを失い、討幕派の勢力が強まる
1867年3月西郷隆盛が700の精兵を率いて上洛
土佐藩士と会合を行い、連携を強める
4月14日高杉晋作が肺結核のために病死する
以後、長州藩は桂小五郎が主導する
5月薩摩藩の主導により、四候会議が成立する
これは先の参預会議と同じ人員によって構成される、朝廷付属の諮問機関だった
薩摩藩はこの会議よって諸侯が朝廷と幕府に影響を及ぼす体制を構築しようと計ったが、徳川慶喜と島津久光が対立し、再び解散に追い込まれる
これによって薩摩藩の武力討幕路線が確定する
5月21日中岡慎太郎の斡旋により、薩摩藩と土佐藩の間で、討幕を目的とした秘密同盟が締結される
5月24日徳川慶喜が、半年後に期限が迫った兵庫開港の勅許を決定するための朝議の開催を要求する
これを通せなければ、幕府は諸外国から信頼を失うことになり、兵庫開港問題は重大な政治課題となっていた
長時間にわたる討論の結果、兵庫開港が勅許され、1858年以来の条約勅許問題がすべて解決する
6月西郷隆盛が長州藩の山県有朋と会い、武力討幕の方針を告げる
これによって薩摩・長州・土佐の三藩が主導する討幕勢力が結成された
しかしこの頃に坂本龍馬が大政奉還の工作を開始しており、山内容堂の意向によって佐幕方針に傾いた土佐藩は、討幕勢力からいったん離脱する
10月14日<大政奉還と討幕の密勅>
討幕活動が盛んになっていることを察知した徳川慶喜が、土佐藩の建白を受け、統治権を朝廷に返上する「大政奉還」を上奏する
これによって、260年続いた徳川幕府の統治が、形式上は終焉する
同日、西郷隆盛や大久保利通らの工作によって、朝廷から薩摩藩に対し「討幕の密勅」が下されていたが、大政奉還によって無効となる
11月西郷隆盛は薩摩に帰国し、3千の藩兵を率いて出立
長州藩と協議を行い、機を合わせて京都に諸藩の兵が集結する
これには尾張藩や越前藩、芸州藩も協調しており、政変のための準備が整えられた
11月15日坂本龍馬が近江屋で暗殺される
幕府の手先である見廻組が犯人だとされている
この影響を受け、討幕勢力の首脳たちは身辺警護を強化する
12月9日<王政復古の大号令>
御所の警備についていた会津・桑名藩兵に代わり、薩摩・尾張・越前・芸州藩兵が各門を抑え、「王政復古の大号令」が朝廷より打ち出される
これによって、公家や諸侯の連合による政体が樹立されることになった
徳川慶喜の将軍辞任が承認され、幕府や京都守護職の廃止が決まり、新たに総裁・議定・参与の三職が設置される
この会議には、幕府に近しい尾張藩の徳川慶勝や、越前藩の松平慶永らも加わっており、徳川慶喜を参政させるかどうかで激論となる
特に前・土佐藩主の山内容堂が徳川慶喜を強く擁護するも、西郷隆盛の脅しに屈して引き下がる
最終的に、徳川慶喜に対し「辞官納地(官職の辞任と領地の返納)」を要求することが決まる
旧幕府勢力はこれに反発し、戦いの機運が高まる
1868年1月3日<鳥羽・伏見の戦い>
大坂に集結していた徳川軍が上京を開始、その先鋒隊と薩長の守備隊が戦端を開き、「鳥羽・伏見の戦い」が始まる
徳川軍は数の上では有利だったが、統率が取れていなかったため、緒戦で敗北する
この勝利を受け、新政府軍はあらかじめ用意していた錦の御旗を掲げ、徳川慶喜を朝敵に指定して糾弾し、政治的な優位を確保する
1月6日朝敵に指定され、戦意を喪失した徳川慶喜は、松平容保や幕閣を引き連れ、大坂城を脱出して江戸に退去する
1月7日新政府は慶喜に追討令を出し、有栖川宮熾仁親王を東征大総督に任じ、東海・東山・北陸地方の攻略に乗り出す
西国では、ほとんどの藩が新政府に恭順し、速やかに統一が成されていった
1月23日勝海舟が徳川氏の陸軍総裁に任じられ、新政府との交渉を徳川慶喜に一任される
徳川慶喜は江戸城を出て謹慎し、抗戦の意思がないことを示した
2月14日西郷隆盛が東征軍の下参謀に任じられる
2月28日東征軍は箱根まで進軍してこれを占拠し、いったん静岡に引き返す
3月9日静岡で勝海舟に派遣された幕臣・山岡鉄舟と西郷隆盛が会談し、徳川慶喜の降伏についての話し合いがもたれる
3月13〜14日勝海舟と西郷隆盛が会談し、江戸城の明け渡しが決まる
4月3日元新選組隊長・近藤勇が流山で捕縛され、後に処刑される
新選組は鳥羽・伏見の敗戦後に江戸に撤退し、そのまま解散状態となっていた
4月11日江戸城の明け渡しが実施される
5月<戊辰戦争の始まり>
新政府と奥羽越列藩同盟との戦いが始まる
新政府は会津藩と庄内藩を朝敵に指定し、討伐を行おうとしたが、これに東北諸藩が反発し、戦いに発展した
会津藩は京都で数年に渡り、長州藩士や尊王攘夷派の浪士を殺傷したことを恨まれており、庄内藩は薩摩藩の江戸屋敷を焼き払ったことを咎められた
この戦いが起きた原因には、自分たちが関与しないうちに政権が変わってしまった事に対する、東北諸藩の反発心もあったと思われる
5月15日<上野戦争>
上野で旧幕府勢力・彰義隊への攻撃が始まり、1日で新政府軍が勝利する
7月<北越戦争>
新潟で新政府軍と長岡藩との激戦が行われ、一進一退の攻防となるが、最終的に新政府軍が勝利する
新潟港を失い、東北諸藩は西洋の最新兵器の輸入が不可能となり、戦意が低下する
9月22日会津藩が新政府軍の猛攻を受けて降伏する
9月24日庄内藩も降伏し、東北での戦いが終結する
12月5日旧幕府の海軍を率いる榎本武揚が北海道の箱館に上陸
五稜郭を占領し、徳川家臣による北海道支配・開拓の権利を求める嘆願書を新政府に提出するも、認められず
1869年4月9日新政府軍が青森から北海道への上陸作戦に成功し、旧幕府軍への攻撃を開始する
5月18日北海道に渡って抵抗を続けていた元新選組副長・土方歳三が戦死
榎本武揚が新政府軍に降伏し、戊辰戦争が終結する
5月24日新政府は徳川慶喜の罪を許し、田安亀之助に徳川宗家を相続させる
徳川氏は静岡70万石の大名となり、幕末の争乱が集結する