坂本龍馬の事跡の一つとして「大政奉還の実現」が知られていますが、龍馬の政治的な活動においては、最も重要な案件だったと言えます。
大政奉還とは、徳川幕府が日本の統治権(大政)を朝廷に返上(奉還)することをいいます。
幕府は将軍が運営する軍政組織なわけですが、将軍の地位は朝廷から与えられるもので、権力の正当性は朝廷からの承認を受けて成立するものでした。
このため、幕府に政権を担当する能力がなくなった場合には、統治権を朝廷に返上することもできたのです。
幕府は徳川家康が将軍になって以降、260年もの長きに渡って日本の統治権を掌握して来ました。しかし、1853年のペリーの来航以後、強大な武力を持つ諸外国に屈従する外交を展開したことで、その権威が損なわれていきます。
そしてやがては、幕府は統治者にはふさわしくないのではないか、とみなされるようにもなっていきました。
通商条約と攘夷運動の盛り上がり
幕府は1858年に、アメリカやイギリスなどの西洋諸国の圧迫を受け、開港や交易の開始を定めた通商条約を締結します。これによってそれまでの鎖国(国交樹立の拒否)政策を捨て去り、消極的にではありますが、開国を推進する方針を取ることになりました。
これを受け、国内では開国に反対する攘夷(外国人の排斥)運動が盛り上がっていきます。
200年以上に渡って鎖国をしている状況が当たり前になっていたために、外国人が日本に住み着くことへのアレルギーが強まっていました。また、諸外国が強大な軍事力を背景に、日本を圧迫することへの反発が高まったのが、この運動が盛り上がった原因になっています。
この結果、日本に滞在し始めた外国人が襲撃・殺傷される事件が頻発し、条約で定めた兵庫や新潟など、いくつかの港の開港日が延期される事態を招きます。
幕府はこうした国内の混乱を統制することができず、諸外国からは通商条約を遂行しきれないことや、治安を確保できていないことを責められます。
一方で朝廷からは、開国はやめて攘夷を遂行せよと迫られ、幕府は両者の板挟みとなり、幕府は完全に行き詰まってしまいました。
大政奉還の議論はそのような状況下で、幕府の内部から、「もはや幕府には日本を統制することができないのだから、統治権を朝廷に返上するべきではないか」という意見が浮上してきたことから始まっています。
大久保忠寛と勝海舟の活動
【政体の変革に取り組んだ勝海舟の肖像写真】
これを最初に主張したのは、大久保忠寛という幕臣でした。
大久保は同じく幕臣である勝海舟の友人で、大久保と勝はともに海外情勢にも通じており、広い見識を備えていました。その影響で、幕府や藩といった個別の勢力の事情にとらわれることなく、日本全体のことを考えて政策を提言する活動を行っています。
大久保や勝は、幕府が単独で日本の統治を行うのは既に困難になっているので、諸大名との連合体を形成し、新たな政体を作るべきだと構想し、その実現に向けて働きかけを行いました。
これは1862年〜64年ごろまでに生じた動きです。
当時の日本は260もの諸藩が各地を分割して領有しており、それぞれが自治を行っていました。
徳川氏はその中で最大であるとは言っても、直接には日本の4分の1程度を支配する勢力でしかありません。
幕府は諸藩を統制する権限を持っていましたが、その権威がゆらぐにつれて、薩摩藩や長州藩など、西日本の有力藩は幕府に反抗するようになり、国内が分裂状態に陥っていきました。
イギリスやフランスなどは国を一つに束ねて運用する挙国一致の体制を作り上げており、その威力をもって日本を圧迫して来ていました。
(それ以外にも、軍事技術や生産技術が圧倒的に発展していた、という理由もあります。)
ですので、日本もこれに対抗すべく、徳川氏と諸藩を統合した政体を構築しなければならない、という見識が、先覚的な人々の間で広まりつつありました。
また、外交交渉を成立させる上でも、日本全体を代表できる政権が必要になってもいます。
これを実現するには、幕府が朝廷に政権を返上し、天皇の元で新しい政権を構築するのがよい、とも考えられるようになります。中心になる軸を用意しなければ、国内がバラバラになって内戦が発生する可能性もあったからです。
また、幕府にとっても、もはや対応しきれなくなっている政情を収拾し、危機を脱する上で有効な方策だったと言えます。
大久保は将軍の近くに仕える側用人という高い地位にあったことから、この意見を開陳して幕府内で賛同を得ようとしますが、時期尚早だったようで、反発を受けて左遷されてしまいました。
幕府の内部には、幕府がこのまま単独で統治権を握り続けるべきだとする守旧派が根強く存在しており、そう簡単に大政奉還は成立しなかったのです。
一方で、勝は幕府の海軍を統括する奉行を務めていたことから、幕府と諸藩による連合艦隊(日本海軍)を創設することで、日本を一つに束ねる政治意識を目覚めさせようと働きかけました。しかしこの動きもまた、幕府の守旧派の抵抗によって失敗し、勝は奉行を罷免されてしまいます。
こうして大政奉還や、政体改革をめぐる初期の活動は頓挫しました。
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