龍馬と勝・大久保の関わり
【大政奉還の実現に尽力した坂本龍馬の肖像写真】
坂本龍馬はまだ一介の浪士だった頃に、このような活動を行っていた勝海舟の弟子になっていました。
この時に龍馬は勝のことを、「日本第一の人物」とまで称賛していますので、色濃く影響を受けていたことがわかります。
具体的には、1862年12月から1864年の8月ごろまでが、龍馬が勝に師事していた時期です。
この間に、龍馬は大政奉還の話も耳にしていたと思われます。龍馬は大久保忠寛とも面会して話をしていますので、大久保から直接聞いたのかもしれません。
龍馬は後に、幕府における優れた人物として勝と大久保の名前を挙げていますが、両者が日本全体のことを考え、幕府の私益にこだわっていないところを評価していたのでしょう。
しかし、当時の龍馬は日本の混迷を収拾する上で、そういう方法もあるのかと知っただけで、すぐに大政奉還に向けて動いたわけではありませんでした。
海軍塾の塾頭となり、政治力を持ち始める
龍馬はまず、勝が神戸で開いた海軍操練所の塾頭となり、蒸気船や帆船の運用技術を学びます。そして塾生たちを束ねて同志を得つつ、政治活動も行うようになりました。
しかし1864年には勝の失脚にともなって、この塾が閉鎖されることになります。
塾には龍馬のような脱藩浪士や、薩摩藩や紀州藩などに所属する藩士たちが入り交じった状態になっていました。藩士たちは塾がなくなっても自藩に帰ればよいだけなのですが、寄る辺のない浪士たちは行き場がなくなってしまいます。
このため、勝は塾が閉鎖される直前に、薩摩藩に浪士たちの面倒を見てくれるようにと依頼しました。勝は古くから薩摩藩と関わりがあり、これを主導する西郷隆盛とも親交を持っていましたので、このような依頼ができたのです。
龍馬もまた、勝の紹介によって西郷と会ったことがありました。
薩摩藩としても、当時としては貴重な技能である、蒸気船を運用できる能力を持つ集団と関係を築いておくのは利益のある話ですので、これを承諾します。
蒸気船は当時の最新鋭艦で、経済的にも軍事的にも、大きな意味を持つ存在でした。
浪士たちを束ねる龍馬はこの状況を、起業するためのよい機会だと捉えました。そして薩摩藩や長崎の商人と交渉して援助を引き出し、「亀山社中」という海運会社を設立します。
そして薩摩藩が所有する船舶の運行や、武器や物資の買い付け業務などを行うようになりました。
龍馬の幕末における政治力や発言力は、このような、先進的な技術を持つ集団の頭領だった、というところにその基盤がありました。
浪士たちの中には、後に外務大臣となる陸奥宗光も含まれており、龍馬は有能な人材を手元に抱えていたことになります。
こうして龍馬は薩摩藩との関わりが深くなり、やがて対立していた薩摩藩と長州藩の提携、いわゆる「薩長同盟」を仲介する役割を果たしました。
これは龍馬が地元の土佐(高知県)や江戸で活動していた際に、長州藩の高杉晋作や桂小五郎といった、有力な藩士たちと交流を持っていたために成し遂げられたことです。
龍馬はこのようにして、幕府や有力藩の要人たちと個人的な親交を持ち、その間で活動して政情に影響を及ぼすという、独自の立ち位置を獲得していきました。
海援隊の結成
こうして龍馬は亀山社中を立ち上げたものの、苦心して入手した帆船が難破し、沈没してしまったため、経営はなかなか軌道に乗りませんでした。
資金繰りに困った龍馬は、一度は社中の解散を検討したこともあるほどで、事業立ち上げ期の苦労を背負い込んでいたのだと言えます。
そんな状況下で、やがて1867年になると、龍馬は故郷の土佐藩からの出資を受け、新たに「海援隊」を設立することにしました。
この頃には幕府軍が長州藩に攻め込みながらも敗北したことで、ますますその権威が低下していました。幕府は軍事力によって成立した政権ですので、これは致命傷だったと言えます。
長州藩は幕府に比べて数分の1の国力しか持っていませんでしたが、薩摩藩の支援によって外国から最新鋭の小銃を大量に輸入していましたので、旧式の武器が中心だった幕府軍に勝利できたのです。
この武器の輸入に龍馬が関与していました。
こうした情勢の変化により、幕府を武力で打倒し、新政権を作ろうとする「倒幕派」の勢いが強まっていきます。
しかしながら、土佐藩は幕府を支援する「佐幕派」の方針をとっていましたので、時流の中心から外れてしまっていました。これを挽回するため、倒幕派を主導する薩摩藩や長州藩とつながりを持つ龍馬に接触を図って来たのです。
龍馬からしても、故郷の藩と関係を持って社中を立て直せるのは渡りに船ですので、これを受け入れ、土佐藩と契約して海援隊を結成しました。
海援隊は海軍の運営や人材の育成、海運事業、そして西洋の政治思想を紹介する啓蒙出版も行う、幅広い目的を持った組織でした。
日本で最初の株式会社だったとも言われていますが、幕末の混迷を収拾するための活動を行う総合的な結社だった、と言った方がより正確だと思われます。
海軍の運営や育成は倒幕の武力として、海運事業は活動資金を得るための手段として、出版は新しい思想を広め、政治意識の変革を促すためのものでした。
このような組織を作ったことで、龍馬が幕末の情勢に介入する意欲を、強く持っていたことがうかがえます。
ともあれ、こうして海援隊を結成したことで、龍馬は土佐藩との関わりが強くなりました。そして土佐藩重役の後藤象二郎と意気投合し、同志として活動していくようにもなります。
この土佐藩は佐幕派だっただけに、幕府に意見を言いやすい環境が作られていました。
龍馬はこの状況であれば可能かもしれないと考え、大政奉還の実現に向けて動くことを決意します。
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